生き返る死者とそうでない死者

チア・シード

イザヤ26:1-5   


南ユダ王国の首都エルサレムが想定されている、それはよいのです。そこは守られる、との宣言も喜ばしいものでしょう。では何故主がエルサレムを守るのでしょうか。ユダの民を何故守るのか。主が「あなたを信頼しているがゆえに」です。まず主がイスラエルを信頼している。だからこそ、「主をどこまでも信頼せよ」とイザヤは言うのです。
 
これほどはっきりと、主と民の関係が示されることは珍しい。まず主が愛した、というのは新約の福音です。だったら、この主が先ず信頼したのだ、という構図も、新約に相応しいものではないでしょうか。「イエス・キリストの真実」(ローマ3:22,ガラテヤ2:16,3:22)と聖書協会共同訳が訳し替えたのも、このことと関係があるように思います。
 
かつては専ら、イエス・キリストを信じる信仰、あるいはイエス・キリストへの信仰、という捉え方をしていました。しかし属格の解釈が、新たな福音を発見したのです。「高い所に住む者たち」は主により引き下ろされ、「貧しい者と弱い者」「の足がそれを踏みつける」という価値の逆転が示されます。その「弱い者」たちこそ「正しき人」です。
 
「私の魂は夜にあなたを慕い/私の中で霊があなたを捜し求めます」と、預言者は一人の詩人となって、「私たちの魂の望み」を明らかにします。私たちは「民に注がれるあなたの熱情」を見て、妬ましいほどの主の愛を、確かに身に受けています。主は「私たちに平和を備えてくださ」り、「私たちは、ただあなたの御名だけを唱え」るのです。
 
イスラエルの民と神との絆を確認するイザヤですが、気になる言い回しがあります。「死者が生き返ることはなく/死者の霊も起き上がることはありません」というのです。ここだけ見ると、新約の徒は戸惑うかもしれません。復活を否定しているようにも見えるからです。イザヤはキリストを預言することについてはトップの預言者なのに、驚きです。
 
しかし、これに続いては「あなたは彼らを罰し、滅ぼし/彼らの記憶をすべて消し去られました」と言っています。それは「悪人」であり「あなたの敵」のことです。神に滅ぼされる死者というのは、それほどに恐ろしいことなのです。この後、イザヤは祈りを捧げます。「あなたの死者は生き返り/私の屍は立ち上がります」(26:9)と。


Takapan
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