偽物に気づくべし

チア・シード

イザヤ25:6-8   


主は「この山で」祝宴を開く。「この山で」死を滅ぼし、民の涙を拭ってくださる。もちろんこの山とは、「シオンの山」(24:23)のことです。エルサレムのある、高い丘。イスラエルの誇る都のことです。主はイスラエルを救い、エルサレムを回復させるという希望が告げられます。そしてそこで、主の宴が永遠に続くという慰めです。
 
イザヤの見た幻は、主がイスラエルを救うという基本線を離れません。希望の預言です。黙示録へそのまま続くような喜びの祝宴がもたらされます。ただ、ここで「山」という言葉のが気になります。「あなたは都を石塚とし/城壁のある町を瓦礫の山とし/異邦人の館を都から取り去られた。永久に都が建て直されることはないであろう」(25:2)
 
この「瓦礫の山」とは何でしょう。他国人町を破壊した廃墟です。それは「都」だとも言います。しかし私たちは、都と言えばエルサレムの都を思うし、主が「この山で」祝宴を開くと聞くと、直近のこの「瓦礫の山」のことかと、普通は思うでしょう。「都」といい「山」といい、他国人がエルサレムを支配していたのでしょうか。混乱します。
 
この「都」という語は、別によく「神の都」と呼ぶときの「都」の語です。しかしこの語は、つねに都を表すのではなく、たんに「都市」を表すこともあるはずです。創世記ではさかんに「町」と訳されているもので、バベルなりソドムなり、そういう「町」を指すときにも使われています。「都」と訳さねばならない必然性はありません。
 
そして、「瓦礫の山」と訳されている語も、「山」を表す語ではなく、「破滅」や「滅亡」を意味する語です。それと同じ意味ではないかと言われるかもしれませんが、ここに「山」という日本語を持ってくると、次の、「主はこの山で」というときの「この山」と、どうしてもリンクするではありませんか。国語のテストならそれを指すのが正解です。
 
2節で「都」と訳したのは、並列的に「町」と訳す別の語が来たので、創世記などのように「町」とは訳しづらかったのだろうと推測します。しかしヘブライ語ならずとも、同じものを並列させるときに、別の類語で表現することがあるわけです。ここで「神の都」に使われるが故に「都」としたことで、エルサレムを連想させてしまいました。
 
「都」「瓦礫の山」は、非常に紛らわしい訳語でした。はっきり言うと失敗だと思います。日本語で読み取るときに、誤解させ混乱させる訳語となりました。事実、この日本語に引きずられて、2節をエルサレムのように理解し、主の山をそれとして想像力を働かせ、さも霊的な解釈をしたかのような説教をウェブサイトの中に見つけました。
 
違います。万軍の主が祝宴を開くのは、都エルサレムであり、シオンの山です。「この山で」主がその民を救い、祝福し、喜びをもたらします。紛らわしい偽物を私たちは見せられることがあります。穿った見方に魅力を覚える者が、その偽物を正しい聖書の解釈だ、と奇を衒う惑わしに飛びつくことがあります。それも人間の欲望なのです。


Takapan
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