その祈りを主は聞かない

チア・シード

イザヤ1:11-17   


忌まわしい町の代名詞たるソドムとゴモラは、異邦人の地ではありませんでした。そこへ向けて語られているのは、神を知るイスラエルの民へなのです。これはイザヤ書のほぼ冒頭を飾る言葉。正統に献げているそのいけにえを、主は要らないと言うのです。「それが私にとって何なのか」と、実に手厳しい返事でした。
 
男が女にダイヤを贈る。高級料理店へ連れて行く。それでも「それが何なのか」と言われたら悲しいでしょう。わがままな女の故なら、男もまだ怒ることができましょう。が、このとき男に問題があったのなら、それに気づかねばなりませんでした。他の女にふらふらし、だらしない生活を送っていたのだったら、そう言われても当然ではないでしょうか。
 
一途に愛してほしかった。女はそれだけを求めていたように思うのです。神についてはもちろん、これほど単純な比喩では説明できはしません。神は人を創造しました。愛の絆で導きました。形だけのいけにえの背後に潜む悪は、忌まわしいものです。公正はどこにある。人を虐げているとは。孤児は痛めつけられ、寡婦は不遇な目に遭っている。
 
それなりに表向きは供え物をきちんと実行しているからと言って、神と如何なる関係が結べるというのでしょうか。イザヤの唇は重々しく響きます。人間の身勝手さを「担う」のに疲れ果てた、と嘆息します。人間が神の名目で開く祭を、「私の魂は憎む」とまで言います。どの集いにも、不正がつきまとっていると厳しく告げるのです。
 
だのに平然な顔をして、主の前に出てきます。それは主の庭を踏みつけにしているだけのものです。イザヤの指摘は次から次へと私たちに突き刺さってきます。イザヤは、主を礼拝するイスラエルの民へこれをぶつけました。同じスピリットで預言者は現在、いったいこの言葉を誰に向けているのでしょう。向けられていることを、知っているのでしょうか。


Takapan
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