詩人と預言者

チア・シード

イザヤ12:1-6   


短い一章です。詩編の一つであってもよさそうなものに見えます。詩人たちもまた、預言者の一人なのでしょう。ここはイザヤ。数々の預言を発し、イスラエルの思想に多大な影響を与えた預言者です。そればかりか、新約のメシアの姿を決定づけたと言っても過言ではない、偉大な証言者でもあります。新約聖書での引用もイザヤ書が最多クラスです。
 
詩人の、主への賛美と、イザヤからの賛美には、少しばかり違いがあります。「その日」を明確に想定しているのです。詩人は「主よ、いつかは」という調子の祈りばかりですが、預言者は「その日」と狙いを定めて発言するのです。詩編にはただ一度「その日」という語が見られますが、それは終末を意味するものではありませんでした。
 
しかしイザヤ書だけで46節に現れる「その日」は、その殆どすべてが終末の日を指しています。その主の日に、イスラエルは神に感謝します。しばらくの間、主の怒りは不従順な自分たちに向けられていたものの、豊かな慰めが与えられます。神こそが救い、と繰り返すのです。神を信頼するが故に、恐れはありません。「見よ」との訳出が際立っています。
 
救われた、という喜びが随所に溢れだしています。感謝して主の御名を呼べ、とイスラエルは叫ぶようになるはずです。世にその名を知らせよ。そうして、主をほめ歌え。この「主をほめ歌え」というフレーズを、私たちは祈りの中で献げているでしょうか。一時ワーシップソングが流行しました。「主を褒め歌え」と繰り返して歌いました。
 
それは讃美歌に比べてとても新鮮で、歌詞をたくさん覚えなくても歌えました。全身でいつまでも賛美できました。しかし、歌詞が薄っぺらいなどとの批判があり、下火になってゆきます。でも詩編の詩人や預言者たちは、主を賛美せよ、と歌っているのは事実です。聖書が、喜び歌えとこうやって現に呼びかけているではありませんか。


Takapan
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