平和の理想

チア・シード

イザヤ11:6-10   


たっぷりと情景を描写します。狼と小羊の同居、子牛と若獅子の草食など、およそありえない風景が、ここに示されています。これは延々と続き、乳飲み子とコブラ、乳離れした子と毒蛇まで持ち出されます。要するにこうした例は、1つのことを言いたい為の者です。少々回りくどい説明ではありますが、ヨブ記にもあり、ユダヤ文化の特徴なのでしょう。
 
ここでもそのまとめがあり、誤解させない形となっていますが、多彩な描写が私たちへ強いイメージをもたらしてくれます。主の聖なる山のどこででも、加害者はもはやいないことを宣言します。滅ぼす者、破壊する者は、ひとりもいないのです。キリストの上に神の霊が下り、キリストが地上に降り立った時、このような平和が訪れるのだといいます。
 
平和という言葉、それでよいかどうか、少し考えましょう。イスラエルにおける「平和」とは、たとえば戦いの末に勝ち取るようなものでありました。この直前では、キリストにとどまる主の霊が、主と知り畏れる霊であり、悪人を殺す者であることが記されています。やはり、これもまたダイナミックな動きの結果としての平和であったようです。
 
ここでの穏やかな情景は、力ある者のもたらした世界だったと思われます。このとき、主を知ることが地上に満ちているといいます。知るというのは、深い人格的な交わりがそこにあるということです。自分が変えられるほどの交流がそこにあることを意味するものです。キリストがこの主を知る霊を注がれていたというのは、当然のことでした。
 
私たちに取り、このことは無縁なのでしょうか。主を知る霊など、与えられないのでしょうか。私たちがもしも、自ら心を閉ざし、己れを満足させるばかりで膨れ上がってしまい、主など必要ない、などと豪語して、己れの力を誇るようなことをしていたら、当然駄目でしょう。でも、キリストと生きた出会いを経験できるなら、希望できると思うのです。


Takapan
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