なんとかして表現したもの

チア・シード

イザヤ11:1-10   


ダビデという一つのモデルを使って表すことしかできません。イザヤがなんとかして将来の救いの時を表現しようと努めていますが、イメージはダビデです。何十年か前の未来を舞台に小説を書く作家を想像してみましよう。どんな社会でどんな機器が生まれているか、知らないのです。でも未来の生活を描写しなければなりません。大変です。
 
精一杯の想像を施して描くしかないのですが、さて、実際その未来の年号を迎えたとき、どのくらい当たっていたかを検証されたら、辛いものでしょう。2001年宇宙の旅でさえ、無理だったのです。イザヤの預言は、小説とはもちろん異なりますが、その指摘が神から与えられた幻として真実が貫かれている、と思いたいものです。
 
では、その真実とはどこがどのように現実と預言とが繋がっていればよいのでしょうか。ダビデの末裔として登場するイエスのなす業を、私たちは幾分象徴的に知ることになります。その霊は主のものであり、主を知る霊です。主との豊かな交わりに与る霊です。見聞きするところによって裁かないとは、上辺で決めない、ということでしょうか。
 
霊は、表面だけで左右されず、主はすべてを貫き知ることになりましょう。その故に弱き者の虐げを覚り、正義を示すことになるのです。正義と真実が、如何にこの社会から、世の中から遠ざけられているか。私たちはなんと理想から遠く離れていることか。私たちは被害者気取りをしてはいけません。妨げをしている側でないかとよくよく考えるのです。
 
やがて来る主の聖なる国においては、互いに害することなく、狼と小羊が並び暮らすといいます。赤ちゃんがコブラと共にいても害されることがありません。イザヤの精一杯の表現を駆使しながら、私たちの想像力もフルに働かせて、その時の情景を考えようではありませんか。現代には現代の思い込みがありますが、できるだけ心を無にして。
 
人間はどこまでも自分が可愛いもの。自分の理想を是としたいし、何よりも自分が正しいと思いたいものです。実際思い込んでしまいます。あくまでも正しいのは神であって、神を思う私の側が正しいのではありません。主を畏れることを喜ぶという救い主の姿に、せいぜい倣おうと自らを戒める者でありたいと願います。


Takapan
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