すでにといまだ

チア・シード

イザヤ11:1-5   


預言者の言葉は、エッサイの一言で一気に読者の心をダビデのもとに集めます。聞く者の心はダビデを思い浮かべ、そのイメージに染めることでしょう。イザヤの狙いはそこにありました。救いが来る。イスラエルは終わりの日に、限りない平和の時を迎える。戦いに明け暮れた日々は過ぎ、狼と小羊が共に伏す情景が見えてきます。
 
これを成就させるのは、ダビデ。もちろん歴史上のそれではなく、終末のダビデです。それはエッサイの株から芽生えたひこばえだということで、人間的にはダビデの子孫という理解をもたらします。本当は、それがDNA的子孫でなくてもよかったはずです。だからイエス・キリストの系図がヨセフからであっても、何の障害にもならないと思われます。
 
堂々と、ヨセフの子と思われていただけのイエスも、エッサイの株につながるのです。そこには主の霊が留まり、弱い者、地の上で苦しむ者のために、公平な裁きがもたらされます。正義と真実とがそのなすところとなるのです。口からの杖とは力ある言葉のことでしょうか。豊かなイメージで描く王の姿がここからしばらく描かれていきます。
 
いまは抽象的に告げられており、知恵と分別といった概念が飛び交います。旧約の知恵なるものは擬人化もし、人格化して紹介されもしました。果たして霊としてのはたらきは正にそうした形で及ぶとして当然なのです。思慮と勇気は、がむしゃらに怒りを示すようなものではなく、十分考慮された末の断行といった具合です。
 
正義と真実をモットーに、あらゆる措置がなされることを私たちは知ります。私たちにはいまだこの平和の世界は実現していません。でもすでに、イエス・キリストが現れました。十字架という予想だにしない方法を経て、復活が単なる一時的なものではなく、永遠に生きるキリストの力として保証されました。ある意味ですでに実現したのです。


Takapan
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