絵空事ではない

チア・シード

イザヤ11:1-10   


ダビデの家系をエッサイの根とイザヤは呼びます。若枝が芽吹き、主の霊がそこにとどまると、正義が実行されます。平和が実現し、主の名の下に治安が固まります。世界の国々がこの下に集う、というように、イザヤの見る幻は美しく希望をもらすのです。後世の私たちクリスチャンは、これをキリストのことだと当てはめ合点がいくことになります。
 
が、当時の人はこれをどう見たでしょうか。エレミヤのように、その人生の出来事、つまり当時の王や社会との関わり、あるいはエレミヤ自身が体験した迫害や他の預言者との軋轢などが随所に描かれ報告されている訳ではありません。ひたすらイザヤの心に浮かんだ事、神がイザヤに与えた言葉を列記していくだけなのです。
 
わずかに召命の記事があり、アハズ王とのやりとりやアッシリア軍の攻撃の緊迫の場面でヒゼキヤ王が第一イザヤの最後にあるけれども、イザヤ書の多くは預言の内容です。ここはキリストを描いたとされるのが常識であり、また福音書もこうしたところを引用して、イエスがメシアであることを示そうとしています。が、本当にそれだけなのでしょうか。
 
イエスの言動について、イザヤ書を背景にした説明が、ほんとうにたくさんあり、この預言の書の随所にキリストの姿が刻まれているという理解が一般的であるのは事実です。それをまた生活の規範のように扱うことも可能でしょう。私たちはもう、イザヤ書の文言だけの意味でなく、それを超えて、キリストを重ねることしか、もうできなくなっています。
 
狼と小羊、乳飲み子とコブラ、そんな対比が、平和の極致を描いているわけですが、この奇蹟のような幻は、実現可能でしょうか。ただの戯れ言でしょう。主を知ることがこれをもたらすといいます。平和の幻は絵空事なのでしょうか。安直な平和論は、逆の立場の執拗な攻撃にはなかなか勝てない場合があります。私たちはイザヤ書をどう読みましょうか。
 
私は、それを平和の夢物語だとは思いません。人類はここに、平和の理想を確かに見ている点をまず捉えたい。戦争が当たり前で残虐な戦いを、国際法もないままに繰り返していたあの時代に、よくぞこれだけの思想ができたものだと驚きます。私たちはその実現へと努力しているでしょうか。少なくともそれを掲げて、平和の実現に意味を見出しているでしょうか。


Takapan
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