神と出会う

チア・シード

イザヤ11:1-10   


ダビデの家から救いの霊が出てくるだろう。イザヤは確信します。絶望的な現状を目の当たりにしつつも、イザヤは希望を捨てません。イスラエルの民の中にこうまで希望を見据えた眼差しがあるというのを、不思議に思います。知恵こそ力に勝ることを疑わず、絵に描いた餅のような平和の姿を正面から描いて止まないのです。
 
救う者は霊。主の霊が留まった者の手によって、世界は変えられるのだと言います。弱者を助け、貧しい人を守る世界になります。この世でいまなかなか見られない情景だからこそ、このような幻が描き出されるのでしょう。どんなに理想の姿として夢のようでも、神の言葉は現実化するのですから、そこに信仰があればこの幻にコミットしましょう。
 
イエスは会堂で巻物のイザヤ書を開いたことがあります。福音書にも、詩編と並んでイザヤ書からの引用が非常にたくさんあります。イエス自身、メシアとしての働きに関係して、イザヤ書が人々によく読まれていることが必要だと感じたものと推測されます。そのイエスが地上の旅で守ろうとしたことは、ここに挙がっていることではないでしょうか。
 
十字架の出来事と次元が異なるかのようですが、イエスに従った弟子たちからすれば、温もりあるイエスの思いはこうしたところにあるように思われたことでしょう。神の国では猛獣と子どもたちとが共に和し、毒蛇すら害を与えることがありません。人が思いも及ばぬ平和が提示されています。互いに害を与えるようなことのない国が現実化するのです。
 
主を知る、つまり主と出会い、主と交わる信頼の中にある関係が、互いを結びつけています。エッサイの根は、あらゆる民の旗となり、このフラグに平和があるから、高らかにこれを掲げることで、平和の目印となるでしょう。イザヤの見る幻は、神を神として尊ぶ様です。私たちはただそれを指し示すことができるのがせいぜいできることなのです。
 
いわばイエスですら、旗印に過ぎないような書き方がしてあります。イエスがいるから、私たちは神を知るのです。つまり主と人格的に交わりをなし、主と出会うことになるのです。会見の幕屋の聖所へ誰もが入ることができるようになったという点にも、イエスの存在とその十字架の姿が輝く結果を覚えます。神と出会うことが誰にも可能になったのです。


Takapan
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