口先だけの自分を知るには

チア・シード

ホセア6:1-3   


もはや姦淫の妻の場面ではありません。それを踏まえつつも、ユダとエフライムへのホセアの言葉は、容赦なく突きつけられていきます。私たちは口にするのです。言えるのです。さあ我々は主のもとに帰ろう、と気軽に。主により引き裂かれたユダとエフライム。あるいはアッシリアに踏みにじられた双国。だから主に立ち帰ろう。祈れば癒してくださるぞ。
 
かつてのように許しがあり、またもや温かな手で包んで護ってくださるだろう。そして選ばれたこの民の国は豊かに回復するのだ。ほんとうにそうでしょうか。ホセアはここで驚くべき預言をしていました。2日の後に生き返らせ、3日目に起き上がらせて下さる、などと言っています。イエスはまさに3日目に起き上がっていたのです。
 
イエスはこうして、生きるものとなりました。旧約の預言の随所に、キリストが顔を出してきます。私たちもそのようにして生かされます。キリストに従おう、主を知ること、主と出会い、主と交わることを求めよう。太陽のもたらす朝、やがて降る雨、これらは待てば必ず来ます。主も必ず来てくださいます。私たちはそのように口で告白し信仰を宣言します。
 
今日のこのところだけを聞けば、麗しい信仰のようにしか思えないし、美しい今日一日が輝いているかのように喜ぶかもしれません。ホセアはここに、いけにえを以て主に会おうとする愚かな民の姿を見ています。そんなもので主はおまえの心の配信をなしにはしないのだ、と。まるでイエスの十字架だけでは救えないと言っているかのように聞こえるでしょうか。
 
そんなことはありません。私たちの口先だけの立ち帰りなるものが、如何に自分本位であるかを突きつけられなくてはならないのです。綺麗事ならいくらでも言えます。尤もらしい信仰のセリフも、言うだけなら簡単です。しかし、本当に口に出したことをするのか、しているのかというと、また別の問題であるというわけです。
 
かけ声は立派であっても、魂の中が腐っているというのが問題なのです。けれどもこれが辛いことに、自分自身では気づくことがありません。自分の魂がどうかと判断するのが当の自分の魂であるのですから、的確に知ることができないのです。しかし、この構造を知ることには意味があります。それを神が教えてくださいと委ねるのです。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります