その日がとこしえである意味

チア・シード

ホセア2:16-22   


イスラエルの現在を糾弾する、というよりも、その母について、悪しき点を悪しきものと指摘します。ホセア書は、ホセア自らが妻との関係で、それを痛いほどに味わっていることをすでに告げています。イスラエルは、女性として徹底的に喩え扱っているのです。神が男である、という前提になっているのが聖書でもありました。
 
これは、フェミニズム神学からすると、また批判を受けそうな構造である。しかし、そういう形でしか生き生きと命について語れなかった、ということで、目を瞑って戴きたいところです。但し、このことで男が高慢になり、自分はこのイスラエルのかつての姿ではないのだから、と自己義認してしまうとしたら、問題です。
 
神が人を「いざない、荒れ野に導いて」「優しく語りかける」という設定だけで、読み進めたいものです。否「人」ですらまだ緩いものです。「私」としなくてはなりません。神は、バアルという偶像を「主」としていた私を呼び出しました。私は罰されました。主なる神を忘れました。だが今、神は語りかけます。声を聞かせます。私は神に答えます。
 
しっかりと神の方に向き直ります。背を向け、逃げ去ろうとしたことは、すでに過去になりました。「バアルの名」をこの口から発することは、もうありません。思い起こしもしません。「その日になると」私と神との関係が修復します。かつて私は主を知らなかった、とするのが人間の気づきというものです。その自覚には意味があります。
 
主の側からすれば、私が生まれる前から私を知っていたのです。私を、神の計画の中で生まれさせていました。普通、人はそのことを知りません。しかしキリスト者は、それに気づきました。気づかせてくれたのが、キリストの十字架にほかなりません。私たちは、この「その日」というものを、キリストの救いの中に見ます。
 
「その日」はキリストの日、カイロスです。特定の日付には還元されません。人間世界の暦ではなく、私が、またあなたが、イエスと出会った日、イエスを知った日、それぞれが「その日」となるのです。だからそれはすべての日であり、「永遠」なのです。それは主が「まことをもって」結んだ「契り」の日です。「とこしえの契り」の日なのです。


Takapan
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