苦痛の向こうに

チア・シード

ホセア14:2-8


エフライム。北イスラエルの主要部を担う地域の呼び名ですが、ここは土壌に恵まれ、豊かな作物の実りをもたらす土地です。後にユダヤがイスラエルを代表するようになりますが、時にエフライムを以てイスラエルを示すこともありました。しかしそれは宗教的観点からすれば不正にまみれ、偶像礼拝に染まった歴史を有していました。ホセアはそれを、姦淫の罪と言って憚りません。預言者ホセア自身が、その罪の痛みを味わわされたのです。
 
ホセアは、神の痛みを味わうとまでは言えないかもしれませんが、それに匹敵するかのように、妻の不貞と出産を抱えつつもなお愛していくという体験をしました。神の精神的苦しみに与るという稀有の体験をもつ人です。イエスにもその痛みはあったことでしょうが、なにぶんイエスは、肉体的苦痛の点で最高度のものを受けたことになるでしょう。
 
イエスの苦痛は、将来を断たれるという意味合いをもつものでもありました。このエフライムもまた、未来を失い、絶望しかないような状況でありましたが、そこに主の癒しが与えられるという預言が投げかけられます。そのためには、主に立ち帰ることが求められます。その主とは誰か。「あなたの神」だ。ホセアは「あなたの神」へ帰れと突きつけます。ルツがナオミに言ったように、それはあなたの神となりました。私が、この神のものとなりました。
 
それでも、自分が悪の中にいることが今すぐ消えるわけではありません。悪を取り去ってくださいと神に願うべきなのです。強国アッシリアに救いを求めるのではなく、戦いによって何かを得ようとするのでもありません。私の神に向かう。この気づきが必要です。それを主に告白することが肝要なのです。
 
すると主はどうするのか。預言者は、その主の思いを預かり伝える役割を担います。なんと神は、喜んでイスラエルを愛するというのです。イスラエルは回復され、栄えることになる、とまでいうのです。神ならぬものを神とすることから離れよ。主を主とせよ。ここに命がある、ここにしかない。ホセアはここで泣き叫んでいるように思えてなりません。
 
研究者の中には、10節は後世の加筆ではないかと言う人もいます。尤もらしい教訓のようにまとめる編集者の悪い癖が働いているのではないか、と。確かに、絵本を読み聞かせするにしても、物語のまま終わりあとは子どもたちの心の中に任せていればよいものを、へたな演者は、最後にまとめの教訓を付け加えたくなるものです。ホセアの震えるような思いは、その直前で留めたほうが、よりリアルに感じられるのは事実です。
 
人生の苦悩を強いられた預言者が、罪を悔いる民を慰める構図を私たちはここに見たとすれば、新約の救いとしてこれが実現したことにも気づくでしょう。このホセア書の直前の箇所には、パウロが叫んだ、死の刺のフレーズがあります。ホセアでは死の刺は人間を襲う絶望の力でした。パウロもその響きを保ちつつ、そこから救う方としてイエス・キリストを掲げます。ですから、この14章の中に、新約の徒はキリストの救いを見るのです。


Takapan
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