主に立ち帰って言うべし

チア・シード

ホセア14:1-7   


預言者自らが痛みを伴い、紙の傷みを身を以て知ることを余儀なくされたのが、ホセアの預言活動でした。他の男に身をやつしその子を産む女を妻に娶れ、と神に命じられたのです。きっかけはまずそこにありましたが、ホセアから語られる預言は、次第に陰惨さを増してゆきます。たしかに「人を結ぶ綱、愛の絆」(11:04)で神はイスラエルを導きました。
 
しかし、北イスラエルの信仰的な悲惨さは、もはや目も当てられないものとなりました。そこは、エフライムともサマリアとも呼ばれます。東北地方を北日本とかみちのくとか呼ぶのと似ています。ホセアは、サマリアの罪の顛末を酷い形で描くと、もうこれで十分とでも思ったか、今度はイスラエルが回復するという方へ目を転じます。
 
「イスラエルよ、立ち帰れ」と呼びかける声は、今も私たちのところへ響いています。どこへ立ち帰るのでしょう。もちろん「あなたの神、主のもとへ」です。あなたの知らない神へ、ではありません。よその国の神ではありません。では日本人にとっての呼びかけではない、というのでしょうか。日本人をも、この神は創造したのではないのでしょうか。
 
そこは微妙な経緯があると言えます。でも、そうなのだ、と決める出来事がありました。イエス・キリストです。キリストにより、すべての民へ福音がもたらされました。すべての民が、人類が、この救いの下に寄せられるのです。私たちも言わねばなりません。「どうぞ罪をすべて赦し/良いものを受け取ってください。/私たちは唇の実を献げます」と。
 
そうすれば、神は「背いた彼らを癒やし/喜んで愛する」のだ。ホセアが叫びます。神の怒りは、立ち帰った者からは離れます。神はイスラエルにとり露となります。背いた民は花を咲かせるでしょう。レバノン杉のように根を下ろしてかぐわしさを放ち、オリーブの木の如き美しい姿を以て、立ち上がることでしょう。見事な回復の姿を呈します。
 
ここにレバノン杉の「かぐわしさ」に言及されていますが、キリストの香りを漂わせ、命の福音をもたらすことを、パウロの言葉にも重ねて期待したいものだと思います。人間はどこまでも、自分の罪を知り尽くし得ない者です。神に立ち返るという姿勢は、一度きりのことではなく、絶えずその気持ちで構えているべきものだと思います。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります