赦しと裁きの言葉

チア・シード

ホセア13:4-13   


ホセア書は前半では衝撃的な事件が描かれます。ホセアの妻が姦淫の末子を産むが、それをホセアはまるまる愛せと神に命じられるのです。尋常ではないこの命令にホセアは従い、神がイスラエルを愛するとはどういうことか、思い知らされます。とことん愛するのだということを身を以て教えたはずのホセア書が、途中から様相が変わってきます。
 
イスラエルへの厳しい罰を立て続けに宣言するようになるのです。その罪を徹底して暴き、断罪します。神がこれほどに愛情を注いだとするからこそ、牙を剥くように絶え間なき攻撃が襲いかかるかのようです。エフライムは豊かな土地でした。肥沃さでは抜群の地であるのに、いまやバアルへの罪にまみれ、空しく消える運命にあるとまで言われます。
 
私のほかに救う者はいない、そう主は告げます。イスラエルを助ける者は自分のほかにないと宣言するのです。あなたの王は今、どこにいるのか。反語的な問いが突きつけられています。イスラエルがサムエルの忠告を聞かずに求めた王制の始まりの経緯を、改めてここに問い、それでよかったのかと考えさせているようにも見えます。
 
この世の政治をすべて神に伺う形にしてしまうのが現実的であるのか、そのような疑問を受け付ける余地はありません。主は怒りを以て王を立てたのだと告げます。ダビデもその類だったのでしょうか。それともダビデに至り、次善の策と認められたのでしょうか。主はダビデ王を偏愛すらしました。そして主の僕ダビデとの故に、国を滅ぼしませんでした。
 
確かに南ユダに限ってのことですが、主を離れた子孫が王として続いたユダ王国は、ダビデの故に存続することができました。その末にイエスが登場した、として新約の徒はメシアを待望した人々に心を重ねるのですが、ホセアが告げるところによると、そのような祝福や希望、あるいは福音と呼べるようなものはどこにもありません。
 
ひたすらエフライムの罪を指摘し、その責任を問い、罰を宣べる。どれほど痛めつければよいのでしょう。辛いではありませんか。このときに聖書を一度閉じてしまうと、救いのない絶望に包まれそうです。当該箇所も、ここだけ切り取って礼拝を終われば、暗い気持ちになって私たちは家路につかなければなりません。
 
ホセア書はこの後、最後に至ってですが、ようやく救いの情景を漏らします。預言の書が本当にこの結果のために記されたのか、それとも誰かが厳しい裁きに見かねて救いを書き加えたのか、それは問わないことにしましょう。ともかく私たちは、下手に救いを見越して甘い気持ちで厳しい言葉を軽んじないようにするしかないのです。


Takapan
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