神の愛

チア・シード

ホセア11:1-9   


衝撃的な体験がホセアにはありました。神の命令で、とんでもない女性と結婚したのです。よその男により孕んだその女性の子を、自分の子として育て、なおかつこの女性を愛することを強いられました。それは、イスラエルに対して神が長年経験してきたことでした。それを預言書ホセアが、身を以て体験して、神のことを知れ、神を伝えよ、というのです。
 
神の苦しい愛を世に知らせなければなりません。しかしそれでも、神の裁きがあるのだ、と声を嗄らして割けばなければなりません。ホセアは、イスラエルの民に、裁きが本当にあるのだと言うことを繰り返し語ります。その語りには、かなり残酷なものを感じるのは私だけでしょうか。まさか自分の身に起きたことの恨みではないでしょうけれど。
 
その中で、もう一度神の愛を述べるところがあります。エジプトから呼び出したイスラエルは、偶像へとなびいていきました。これを激しく嘆きます。聖書の中でも数少ない「絆」という語がここにあります。他には3カ所しかありません。絆とくれば「つながり」と思う人が多いのですが、これは離れたくても離れられない束縛「ほだし」です。
 
神の愛は、それほどイスラエルを神に縛り付けようとします。人はこれを迷惑と思うかもしれません。神はアッシリアなどにイスラエルを渡したくないと思っています。その憐れみのは、ここから見ていても胸が熱くなります。もはや怒りを燃やすこともなく、イスラエルを滅ぼすようなことはないと神は宣言します。一度は滅ぼしたのですが。
 
怒りをもうぶつけはしない。まるで、神が自分の胸に言い聞かせるかのように呟いている様子をホセアは描きます。ホセアの中で何がどう変化しているのかが興味深いものです。でも神の思いのいろいな面を見るようで、私たちはもっと素直に驚いてよいのかもしれません。ただ、この図式の中で、私たち自身は、いったいどこにいるのでしょうか。
 
アダムやエリヤに投げかけられた、どこにいるのか、という問いは、つねに私たちにも向けられています。響いているでしょうか。私はホセア気取りになることもできないし、まして神の批評ができるような者でもありません。この主なる神に創造された土塊にすぎません。むしろ神の裁きを受けるしかないような存在です。
 
しかし神より差し出された絆があります。私が振りほどこうとしたとしても、決して逃れることのできない、神の愛が私を縛り付けます。それを知ってしまったのです。神からの約束を信頼することが許されているのです。もう怒らないと誓う主のもとで、雌鶏がその翼で雛を懐くようにして守られており、憐れみの中で生かされています。
 
ならば、せめて同胞へ、隣人へ、この恵みを分かち合うべく声をかけることくらいは、させてもらってもよいのです。どんなにささやかでも、救われた者が当然次になすステップとして、神の愛を伝えよう。この主からもう離れまいと己にもう一度言い聞かせ、この神こそが愛なのだと、ふれまわろう。あなたもその愛の中にいるのだ、と。


Takapan
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