犠牲に終止符を

チア・シード

ヘブライ7:26-28   


ヘブライ書は、込み入った論証と文化的背景をもつことで、すんなりと読めない面がある書簡ですが、言おうとしていることはそれなりに掴みやすいと言えます。イエス・キリストは旧約聖書の大祭司に当たるが、ただの人間とは違うから、特別な唯一の、一回きりの犠牲で役割を果たしたのだというのです。
 
その論の途中に、メルキゼデクという名の祭司を著者は登場させます。メルキゼデクが、かつて大いに注目された存在であったのかどうかは定かでありません。詩編110:4で触れられたことがありますが、それはその名に「義」のニュアンスが感じられることからの連想のようにも見えます。
 
しかしここに目をつけたのは、イエス・キリストへと導く議論としては成功だったと思われます。メルキゼデクはなんだか特別な存在のようですが、それでもそれは人間に過ぎず、イエス・キリストはそれにも勝る、とくるわけです。勝るどころではなく、これ以上ない完全な存在であったのだ、と締め括ります。
 
当時、手紙という文学形式は、たいへん権威をもつ形であったと思われます。すでにパウロの書簡は通用していましたし、ギリシアの文筆家も手紙という形で思想が展開されることもありました。ですから、中身は論考であったり説教であったりしても、手紙という形式でこのように記されたという可能性があります。
 
大祭司が献げる行為には、実は自分自身の罪をその中に含むものであったと説明されます。ですが、一種の自己撞着で、これでは自分で自分を赦すようなことをしてしまう、唯一の例外ができてしまいます。自己パラドックスが生じるのです。まるで神に成り代わり行う儀式ですが、当人は神ではないので自分の罪を扱うことはできなくなるからです。
 
罪を赦すための献げものは、日に日に血なまぐさい犠牲を繰り返すものでしたが、犠牲を献げても献げても、さらに罪を購うべく次の犠牲が必要となるのでした。これでは、いったい何のために犠牲を献げているのか分かりませんが、それがずっと当たり前だと考えられていました。
 
まさか、犠牲の肉は、祭司やレビ人の食糧とするために、体よく集められただけのものでしかないはずはないでしょう。しょせん、弱さと欠点をもつ人間の、際限なく果てしない繰り返しの中に置かれる儀式の空しさを招くことに気づいていなかったとすれば、ある意味で間抜けな歴史であったことかと思います。いえ、人間は、改めて指摘されなければ気づかない出来事の中で、思い込みの正義を営んでいるだけなのかもしれません。
 
祭司や学者たちは、自分たちは物事をよく理解しており、神の意志をよく知っているから、神を代弁するべく務めている、そうした顔を、せざるをえなかったのか、しているうちに本気でそのように思えるようになったのか、だんだん視野が狭くなり、社会的にその理解が当然となっていったのでしょう。この構造に異を唱えることは、誰にもできなかったのです。
 
私たちがイエスに倣うとすれば、それができたイエスにも倣うことができるはずです。世の中で常識と思われていること、皆がそうだねと言い合って正しいとしていること、しかし、それでは不当な不利益を受ける人、弱い者、愛されない者が現れるから、そこに光を当て、また味方になるという、イエスの歩みは、常識に異を唱える歩みでもありました。それのできる見方と勇気とを、クリスチャンは与えられることがあると思うのです。


Takapan
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