希望の説教の場の臨場感
チア・シード
ヘブライ6:9-20
この箇所の直前に、キリスト者が強く戒めとしてもつ言葉があります。信じて後に堕落してしまうと、「神の子を自分でまたもや十字架につけ、さらし者にしている」ことになる、というものです。このように見える信徒が実際にいたことは、間違いないでしょう。「しかし」とそこから反転するようにして、今日開かれた聖書箇所は始まります。
「もっと良いこと、救いに関わることがある」というのです。かつてと「同じ熱心さを示して、最後まで希望を持ち続けて」ほしい。説教者は、会衆に向けてこう呼びかけています。そのような礼拝をここに想像すると、なんだか激しい口調で問いかけている様子が想像されてくるのですが、如何でしょうか。
「信仰と忍耐とによって、約束を受け継ぐ人たちに倣う者」となってもらいたい、と説教者は強く告げます。この叫びの響く説教の場の臨場感を、しばらく味わいたいと思います。私たちはいま、その会堂にいます。もとより、当時の「教会」が今風の会堂を有しているとは思えません。純粋に、ひとの集まりのことを教会と呼んでいたことでしょう。
信仰のスピリットの塊のような場が、そこにあったことでしょう。そこへ、あなたがたはいつまで初歩に留まっているのだ、と問いました。堕落したり、怠けたりしている場合ではない、と叱咤激励しました。あなたがたは、神の約束を受け継ぐのだ、と。神の約束について、ここから詳しく問い始めます。それはアブラハムの事例でした。
ただ、アブラハムという人間を描くのが主眼ではありません。神の誓いということについてが問題でした。神の約束は揺るがない、ということを伝えるのです。神は偽ることがないからです。だから、私たちは希望をもつことができるのです。希望がただの画餅ではなく、実現するものだということを、確かなこととして信じることができるのです。
神への希望は、「魂のための安全で確かな錨」である、とも言います。そうして神の懐という港の中へ招き入れられるのです。これが、神の幕屋の内へ入れられる、という形でイスラエルの歴史に重ねられます。決して伝説や空想話ではありません。イエスが「先駆者として」そこへ入ったからです。話は、ダイナミックに、メルキゼデクへと導かれます。