神の計画の地図

チア・シード

ヘブライ6:9-20   


大祭司とは何か。この書の記者は説明し、キリストこそ真の大祭司、しかもかつてなかった特別な大祭司であると告げたいと考えています。そこに、神の約束と誓いについて注釈を入れているというような箇所です。倫理的生活の勧めもあり、そこには必ず報いがあるから、と励まします。
 
神を信じてはいる。けれども、こんなことを馬鹿正直にやっていたって、無駄ではないだろうか、という疑いや懸念が入ることはありませんか。本当に神の救いがあるのだろうか、などと一度問い始めると、何もかもが怪しく思えてくるようになるかもしれません。それを悪魔の業だとして追い払うのも一つですが、これを機会にいろいろ考えてみるのも悪くありません。
 
神は不義な方ではありません。逆にこのことが神を縛ります。神は身動きがとれなくなるのです。神の自由は制限されます。これは哲学的な考察です。しかし全能者はやはり自由なはずです。記者はこの問題を解くために、愛・希望・信を織り交ぜてきます。人の愛は神に覚えられているというのです。また各自希望は持ち続けるべきだし、信仰を忍耐と供に働かせて、約束のものを受け継ぐ者たちに倣ってほしいと言うのです。それは後の章で、信仰者列伝となって示されます。
 
また、約束にいても注釈があります。神の約束は如何にして可能なのでしょうか。信頼が置けるのは如何にしてなのでしょうか。かつてアブラハムに対して神は誓いました。何にかけて誓ったのでしょう。神には、かけて誓うような、より偉大な存在があるわけではありません。そこで自らに対して誓うという形をとります。これしかありません。こればかりは、被造物に真似のできないことです。
 
不変の神の計画がここにあります。これはもう現にそこにあります。その説明を受けて、あなたがたは励まされるはずだろうとこの書は告げます。論文のようではありますが、手紙という形式に乗せている以上、そこにはシチュエーションがあります。そこで、読む者、聞く者に対して呼びかけをします。神の約束も誓いも、神ご自身が根拠です。ほかのものに保証されるようなことがない、そのことだけで十分です。私たちが、これを受け止めた時に、私たちと神との間の契約が成立します。私たちも、一連の信仰者の系列に加わることができるのです。
 
神は偽らない方。義なる方。その故に、与えられる希望があり、私たちの魂はそれを錨として、ゆらゆら浮遊せずに済みます。ではその錨をどこに下ろすとよいのでしょうか。下ろす場所が本当にあるのでしょうか。答えは、イエスの地図の中にあります。地図の中に、イエスの場所があるはずです。そこに下ろすべきです。この書はここから次に、そのイエスへの導きます。私たちにはさしあたり、地図中の×点として、十字架を探しましょう。


Takapan
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