恵みの座

チア・シード

ヘブライ4:14-16   


教会で礼拝のとき、後ろの方から席が埋まっていくことがあります。牧師は以前よく言っていました。前の席こそ「恵みの座」ですぞ、と。故無きことではありません。そこだと、説教者が近いということはもちろんですが、他の人が視界に入ってこないのです。人を見るために教会に来るのでなく、神に会うためだとすれば、こんなよいことはありません。
 
私たちは礼拝において、まず神を称えます。しかし実在に関していうと、まず神の方が先立って、私たちに恵みを与えたところから始まります。私たちはイエスの時代よりだいぶ後に生まれました。確実に神が先立っていることは言うまでもありません。私たちが神をつくり、選んだのではない以上、「神から」という恵みを忘れないようにしたいものです。
 
神の子イエスという言い方をヘブライ書は明言しますが、同時に大祭司でもある、と言っています。だから「告白」をしよう、と促しています。神の言葉は生きていて、人が何かを隠していても、迷っていても、魂の中にぐいぐいと刺しこんできます。この神の前に弁明などをする余地もありませんが、「告白」の姿勢を神は喜ばれるのでしょうか。
 
私たちは、もとより完全ではありません。弱さの集まりのようなものです。しかし、そうした人間としての弱さや至らなさについては、この大祭司イエスが自ら味わってくださった方だということを強く覚えておきたいものです。私たちに憐れみをかけ、恵みを注いでくださいます。人々はこのイエスの許にいて、つながっている限り、助けが与えられます。
 
しかもそれは、人にとり、実に時宜に適った助けとなります。なんと頼もしいことでしょう。なんとうれしいことでしょう。そうしたものが確かにあるのですから、堂々と、大胆に、恵みの座に近づこうではありませんか。ヘブライ書はそう励まします。自分は立派な者ではありません、などと遠慮をするのは、はっきり言いますが、間違っています。
 
礼拝で神の言葉を語ることを、説教といいます。説教はかくありたいものです。あなたを神は愛している。神はあなたを大切にする。牧師は、こうしたメッセージを伝えるために、祈っています。備えをしています。だから恵みの座は、紛うことなくそこにあります。たとえ後方の席であっても、神の言葉があるところに、神の恵みがあるのです。


Takapan
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