イエスを語る説教

チア・シード

ヘブライ4:14-16   


ヘブル人へ向けて、旧約の考え方を踏まえてその謎を解き明かすかのように語るヘブライ書です。旧約聖書を繙いているとはいえ、その思考法や用語に不慣れな私たちは、異文化を覚えすっと入ってこない部分に出会うかもしれません。ここまで安息というテーマに沿って語ってきましたが、ここからいよいよ大祭司キリストを描こうとしているように見えます。
 
このイエスこそ大祭司である、と突然宣言するので、文化的背景がない読者は戸惑うことになります。しかし筆者にはそれも計算済みで、ここから深く論じていくのですから、心配には及びません。イエスは救い主であると告げてきています。それが、旧約の救いの図式の中にきちんとはめこまれようとしているだけなのです。
 
イスラエルの民にとり、律法を守ることで神に褒められるという信仰が培われてきたのは事実です。そこにあった報いというのは何だったのでしょう。申命記的に言えば、呪いでなく祝福ということですが、死後の命ということが表に出てきたのは、旧約末期から中間期と呼ばれる頃だと言われています。沈黙の世紀の中で、報いのイメージが変化してきたとも言えます。
 
イエスの時には、永遠の命ということがずいぶんと先頭に立つようになっています。この辺りの報酬観の展開は研究に値すると思われます。このとき、イエスの果たした役割というのは、依然として旧約時代の神殿祭儀をモデルとしており、イスラエルの罪を赦すための大祭司、しかも一度きりの犠牲で万事を救いへともたらす特別な大祭司でした。
 
ここではキリストは神の子であると、もうはっきり出しています。ここからその大祭司について細かく論じていくことになります。突きつけているユダヤ人たちの信仰は、パウロが熱く語る信仰とは些か異なるようにも感じられます。パウロは、旧約聖書を説きながらも、どこか異邦人に通用する語り方であったのではないでしょうか。しかしこのヘブライ書は、異邦人はお構いなしに、ユダヤ人へ向けて語りかけています。
 
この短い箇所の中には、なかなか効果的な呼びかけてなされているように読めました。イエスの任務が示され、その共感の度合いの優越が、人として試練に遭った故であるとし、私たちも至聖所へと導いていくことを述べています。抽象的な言葉が多いので、筆者の真意を探るのには困難が伴いますが、いままた私たちがこれを用いて語るとき、そこで聴く人々の状況に応じて適用が可能であるとも言えるでしょう。
 
ヘブライ書は、手紙ではなく論文のようだとよく言われますが、ここに、説教であると理解してみたいと思います。記者の思惑も大切ですが、受け取る私たちの側からもっと読み解いてよいという気がするし、私たちの口を通してこの説教を受け止め、噛みしめてみたいと考えるのです。イエスは私の弱さを担ってくださり、共に苦悩してくださり、私たちはその心を受け、力を授かり、安心して神の許に歩み寄っていくことが許されているのです。
 
この説教は「わたしたち」と語りながら呼びかけます。説教者は、自ら語る神の言葉を、自身へと適用させつつ語っていると言われます。自分への適用を常に弁えながら、神の言葉の説教が、共に進もうではないかと会衆に告げ、共有されていきます。こうして私たちはもはや独りではなくなり、仲間と共にいることができます。イエスが共にいることに加えて、心強い仲間も具えられるのです。


Takapan
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