今日とは何か

チア・シード

ヘブライ3:7-13   


「だから」とヘブライ書は新しい展開をもたらすことがよくあります。「ゆえに」と訳せばそのまま論文です。罪からの救いはイエスによりなされました。確かにモーセはイスラエル民族にとり、律法という根幹を与えた偉大な人物であり、民族の象徴でもありますが、神の家、神の国の実現のためにはイエスが必要でした。
 
あなたたち。呼びかけられているのは、手紙だか論文だかの読者です。向けられた対象としての人々であり、個人としてのあなたです。今日が明日になると、明日のその日が「今日」になります。神の声を聞いたのは今日であるにしても、それはやがて「昨日」になってしまいます。言葉の上では「今日」としか表現の仕様がないのですが、その発言時が異なることで指す対象が変化するというレトリカルな構造を、ヘブライ書の記者は覚っています。
 
私たちは「今日」と呼びつつ、それを過去へと置き換えていまうのです。それはかつての荒野におけるイスラエルの民の不従順と同じものでした。自分の心が頑なになっているということに、当の自分は気がつきません。自分の心の状態を知ることはできないのです。なぜなら、その知る主体である自分自身がまさにその対象なのですから。人間は神ではないので、自己認識には不可能な領域が残されているのです。
 
むしろそのような時には、神をも自分の支配下に置くような構造を自らとっていることになるのですが、この錯覚にさえもちろん気がつきません。旧約の詩編からヘブライ書の記者は縦横に引用をして、自分たちの置かれた情況を把握しようとしますが、それができるのは預言者ならではのことです。預言者は、神の言葉を預かるわけで、まさに神がそのように指摘しているということを代弁する役割だからでする
 
記者は、後に列伝の形で延々と披露する信仰者の信仰というテーマを臭わせながら、罪により頑なになってしまわないように警告を与えます。それは「今日」を強く意識しつつ、互いに励まし合うことにより抜け出すことができるでしょう。「今日」というのは、神が人の歴史に介入するカイロスとは異なり、人の世におけるいまこの時を表します。神にとり、ではなく、人にとり、自分にとり、特別な「今日」です。
 
特別な私の「今日」。絶えずそこにあるように見える「今日」。いまここにおける自分とその世界を突きつけてきます。最初も最後もすべて含む、その都度の「今日」あるいは「いま」は、永遠をも同時に表すことにもなります。私にとりこの地上での「今日」には限りがありますが、神のもたらす「今日」には限りがないのです。


Takapan
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