痛みと苦しみを知る方だから

チア・シード

ヘブライ2:10-18   


万物の存在者の目標かつ始源である方、それがイエスという形をとって、私たちの目に見えるように現れた、と指摘します。そして私たちもその網の中に出現させられました。記者の想定している図式は、かなり大胆であると思います。定式化してみても、十分理解ができるというものではないようです。なかなか難しい説教です。
 
イエスは、限りなく私たちの身に寄り添ってくださった、ということを言いたいのではないか、とここでは考えます。私たちの血と肉にすら与ってくださるとは、驚くばかりです。私たち人間が死なねばならないのなら、その死にまでつきあってくださった、それがイエスです。その死によって、死の力を有する悪魔を無力にしたのでした。
 
また、死の恐怖に縮こまり、奴隷状態であった人々を、自由にしました。これは非常に大きなことです。人々の罪はもう神の前で追及されることはありません。それを伝えるために、限りない痛みをイエスは経験されました。どれほどの試練があり、苦しんだか知れません。でもだからこそ、人間を助けることができる、とまで言っています。
 
おまえに何が分かるのか。病人に言われます。被災者に言われます。援助者はこれに何も返すことができません。あなたの気持ちは分かります、などと軽々しく言ったものなら、安全なところにいる者から言われたくなどない、と総スカンを食らいそうです。同じ痛みと苦しみを遭った者同士でなければ、いくらかの共感が起こりうるのである。
 
たとえすべてが分かるという訳ではないにしても、互いに別の立場であるからこそ見えるものも異なって当然であり、吹く風の向きも異なってよいのだ、と考えるゆとりがあればいいのに、と願います。柔らかな共感が人と人との間にあれば、いくらかでもこの世界で呼吸がしやすいのだろう、と想像します。理想的ではないとしても。
 
その理想は、神においては可能になる、と見てはいけないでしょうか。神はあらゆる存在書の目標であり始源だと言いました。もちろん私にとっても、目的であり始源です。けれどもそれだけではまだ理想にはなりえません。このイエスが必要でした。イエスを通してこそ、人はあらゆる理想が実現可能なのだと合点がいくのではないでしょうか。


Takapan
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