押し流されている自覚

チア・シード

ヘブライ2:1-4   


押し流されてしまわないように。そう、私たちは流されています。大きな世の力に独りで立ち向かうことなどできません。ヒーローになれるわけではないのです。しかしそれは、抵抗できないという意味ではありません。押し流されないようにせよ、と命じられているからには、それができる道が示されているに違いありません。
 
聞いたことに気を払っておく必要がある。これが押し流されないようにするための知恵です。信仰は聞くことに始まるとも言われます。外からの呼びかけがあります。自分の中から生まれるのではありません。神からの声を聞くこと、つまり聞くとは従うということでもあるのですが、ここに、押し流されないようにするための方法があります。
 
かつて神が、あるいは天使を通じてであっても、語った言葉が私たちには伝えられています。それで私たちはこれを聞きました。ではどうするか。それを蔑ろにするのか。自分とは関係のない昔話、物語でしかないのか。私の意思や感情、思いつきがどれほど確かなものであるというのでしょう。それに私自身が気づいていないというのがありさまです。
 
でも、それでは流されてしまうのです。神の言葉を聞く、そこに救いがもたらされます。まさに神が救うのです。この表現のもの凄さに、私たちは案外気づいていません。神が救うというだけで、もう畏れ入り、躍り上がって喜ぶしかないでしょうに、あまつさえ神はしるしを呈し、奇蹟を見せつけました。聖霊を送ってそれを理解すべく助けてくれました。
 
究極的には、なんと御子を私たちがなぶり殺しにするのをそのままに見送っていたのですから、これは殆ど狂気の沙汰です。人間はそれを平然と傍観している。なんと傲慢なのでしょう。なんと偉そうにしているのでしょう。ほかならぬ私、この私がそうなのです。こんなに強い態度でふんぞり返っているのに、いとも簡単に世の力に流されてしまいます。
 
悪への誘いに引き寄せられ、押し流されてしまうこの自分のことが、これほど分かっていないというのも情けない。分かっていないから流される。そのことにすら気づかないし認めようともしません。すでにカノンは語られています。カノンを私たちのほうが揺れ動いているなど批評するなど笑止千万。こちらが動かされているのであり、神は不動なのです。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります