御子を際立たせる始まり
チア・シード
ヘブライ1:1-4
「手紙」と名がついて呼ばれるけれども、得意な位置づけにあるのが、このヘブライ書です。その冒頭を見ます。挨拶めいたものはありません。いまは終わりの時だと言います。かつての預言者の口から語られた神の言葉は、ついに御子を通して語られるに至りました。この御子を「イエス」と明かすのは、ようやく2:9に至ってでした。
けれども、この話を聞く者は、全員がそれをイエスのことだと分かっているはずです。「終わりの時」を意識させるこの手紙は、終盤で、生活面への指示へと展開しますが、ローマ書もそういう構成でした。案外、現代にもなお、聖書自体をまず説明し、それから生活への適応へと流れる、という説教がありがちであるのも肯けます。
神が「御子を通して世界を造」ったのだと言い、「御子を万物の相続者と定め」ていたことを知らせる、謎めいた言い方をするなど、私たちがいまの時代に聞いて直ちに理解するのが難しい気もします。創世記と重ねて聞くしかありませんが、神のあの天地創造は、イエス・キリストを通してであったのだ、などとも言っています。
とても旧約の律法や預言からは思いつかないことです。あの想像の物語の、どこに御子が入り込んでくるのでしょう。それは「神の栄光の輝き」であり、「神の本質の現れ」であると示すしかないようです。そこには「力ある言葉」があり、それにより万物を支えている、ともいいます。ここまでが、創造の業に関わるキリストの話でした。
ここから一気に、イエス像へと移ります。「罪の清めを成し遂げて、天の高い所におられる大いなる方の右の座に着」いたのです。十字架のイエスの姿をひとは想います。その「贖い」については、この手紙の後の方で、たっぷりと語られることになります。このことで御子は「天使たちより優れた者とな」ったのだそうです。「なった」のです。
初めからそう「あった」のではありません。「天使たちにまさる名を受け継」いだのが、十字架の出来事によってでありました。ヘブライ書は「十字架」という言葉を二度しか使いません(6:6,12:2)。イスラエルの律法の内で説明しようとする意図を感じます。天使を非常に重視するのも、その傾向の現れであると言えるのではないでしょうか。