御子イエス

チア・シード

ヘブライ1:1-4   


御子とはキリストにほかならない。キリストはイエスのことですが、ヘブライ書において、キリストとイエスとは、どちらも20節前後で使用されており、中にはイエス・キリストという言い方をする場合もあります。どちらかというと、地上で苦しみを受けた人としてのイエスと、権威を持ち立ち上がるキリストに特徴付けられそうですが、どうでしょうか。
 
それほど厳密に使い分けられているのではないと思います。なんとか規則を見出そうとしても、無理ではないかと。ヘブライ書はこの冒頭部分においては「御子」という言い方を通し、2:9で初めて「イエス」が現れます。死の苦しみについて宣べるときにはそれが良かったようです。「御子」は、キリストもイエスもどちらも含むように見えます。
 
イエスが現れて、私たちに語った言葉を重んじることで、終わりの時を迎えた世を生き抜くことができます。世は終わりの時がいつ来てもよい状態になりました。救いの最終段階に突入したと見られます。かつては預言者の口からもたらされていた神からのメッセージが、イエス・キリストを通して、身を以て示されたからです。
 
この御子は、世界創造にも関わっていたといいます。神の本質の権現でもあり、その言葉の力で万物を支えているのだと考えられます。罪の清めを成し遂げて大いなる方の右の座に就く幻を見たのが預言者だとすると、ヘブライ書の筆者もまた、その一人でありましょう。そして天使ですら御子の前にはひれ伏します。この天使から議論が展開します。
 
この御子という語は、息子という語です。2節で初登場した後は、代名詞で受け続けるか、特に表記せずとも動詞の活用形で分かるという形となっています。邦訳聖書のように「御子」という語が繰り返されるわけではないのです。筆者も肩に力を入れず、自然に当たり前のことを説いているに過ぎないのではないかと思います。
 
地上に来てくださった御子を思います。今さらながらにそれがどんなに大きなことであり、驚くべき奇蹟であるかに気づかされます。クリスチャン生活に慣れてくると、それが当たり前でしかなくなり、恒例行事のようにクリスマスを過ごすばかりになりがちです。キリストでありイエスという名をもつこの方のことを、改めて思う時と致しましょう。


Takapan
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