御子と天使

チア・シード

ヘブライ1:1-6   


「多くの部分で、多くの方法で」と原文は始まっています。新共同訳では「神は……」で始まりますから、この冒頭の勢いが感じられません。手紙というよりは論文と呼ぶに相応しいとも言われるヘブライ書ですが、やはり原文の風を吹かせてもらえればと願います。日本語の文法に合わせて押し込めているような気がするからです。
 
そこから原文は「かつて」と続き、それから「神」が現れます。この神は、ヘブライ人の「父たち」に向けて語りました。あの預言者たちにおいて。それと対比されて、キリスト以後は御子が私たちに向けて語っているのだ、と持ち出してきます。
 
ここから、御子とは何か、その定義のようなものが続きます。定義は定義です。証明する必要はありません。無根拠に持ち出しているように見えます。証拠も要らないし、仮定というよりは前提となっています。そこからイエスが大祭司であることを論じていくのがこの文章の大きな目的となっています。
 
この前提に、ユダヤ人の有する基準を見ることができます。天使がここにすでにいるのです。天使は御使いと訳す聖書もあります。神により遣わされた者です。ミッションを受けて伝える存在ですが、人間とは別の肉体様式をもっています。これに対して、神の御子という存在が持ち出されます。これがキリストです。神が御子をこの世界に送り出しました。これは「導き入れる」というような意味の語です。フランシスコ会訳は「遣わす」という日本語を当てました。
 
世界はオイコノミア。エコノミーの基の語です。それは家の管理という意味合いから来ています。あるいは、秩序ある家というニュアンスでしょうか。大宇宙を思わせるような気はしません。人の世に御子を神が遣わした。これは、クリスマスの出来事を示していると考えることができます。天使たちはこの御子を礼拝するよう神により命じられています。天使も御子も、神から遣わされた存在ですが、その天使は御子を礼拝する立場です。格が違うのです。
 
御子は、天使たちより「優れた」者であるといいます。また、御子の名は天使たちの名より「優れた」名であるとしています。新共同訳では同じ「優れた」ですが、原語は違います。前者は「力がある」ニュアンスを有し、後者は「抜きん出ている」イメージがあるでしょうか。単に別の語を用いるレトリックかもしれませんが、いずれにしても、「天使」と言えばユダヤ人に通じたその概念を用いて、それより格上の御子を掲示したと言えるでしょう。
 
さて、私たち現代人には、この天使という存在が、周知のものではなくなっています。羽の生えたキューピッドと混同することはできません。けれども、神から助けがあったその時、その都度天使がいたと理解して、自分が守られたことを喜ぶことはできるでじょう。神が助けたとは言えますが、直接携わった人や事件は、神そのものではありません。そしてまた、私たちが逆に、別の人にとって天使であるようなはたらきも、できるものと思われます。神の道具としてはたらくことができるということです。


Takapan
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