変わらぬイエスは世の外で

チア・シード

ヘブライ13:7-16   


具体的な信仰生活上の対人関係を告げる箇所に挟まったところに、イエスの犠牲の意味が、ぽっと花咲くように描かれています。神の言葉がどう語られたか、それを語って指導者たちの信仰はどうだったか、よくよく思い出してみよ、と言います。すでに11章で、信仰者の列伝をずいぶんと長く紹介していますが、こちらはむしろ教会のことでしょうか。
 
あるいは、イエス・キリストのことも言いたいのでしょう。「イエス・キリストは、昨日も今日も、また永遠に変わることのない方です」との言葉が心に残ります。でも人は、いつしか自分を主人公にしてしまい、イエス・キリストの姿を次々と塗り変えてゆきます。現代の私たちこそ、これを戒めとして噛みしめるべきではないでしょうか。
 
どれほど異なるイエス像を、自由の名の下に勝手に思い描いては、それぞれを偶像のように並べ立てていることでしょう。各人の都合の好いように、それぞれつくった神を拝んでいるようなものです。もしもこれら聖書記者が今のこの有様を見たならば、呆れ返り、烈火の如く怒りを以て、非難の言葉を浴びせ始めるのではないでしょうか。
 
「さまざまの異なった教えに振り回されてはなりません」と、仲間たちの方を振り返り、ああなってはいけない、と教え始めるような気がしてなりません。「私たちには一つの祭壇があります」と、ユダヤの儀式のことをここで持ち出しますが、旧約の教えと習慣を、イエスの出来事にたっぷりと重ねて説明しようとしてきます。
 
正直、私にはピンとこないことが多々あります。イエスが門の外、つまりエルサレムの城壁の外で十字架刑に処せられたことが、律法のいけにえの規定に沿うものであることは、聖書の約束に適うものである、と訴えているのでしょう。私たちもまた、宿営の外へ出よう、地上の生き方がすべてではない、地上を出れば、苦しみは去り、神のそばに寄れる。
 
そしりをいま受けても結構。イエスの御名を称える賛美は、この世の栄光とは無関係な者です。このとき「善い行いと施し」または交わりを勧めているところが目を惹きます。それは、この世のものならぬことなのです。善い行いは、すでに神の国の出来事であるのです。私たちの肉を焼ききってこその、いけにえによるものなのです。


Takapan
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