いけにえ

チア・シード

ヘブライ13:7-15   


いけにえ。新共同訳以降は確実にひらがなで馴染んでいますが、フランシスコ会訳では「犠牲」の字で表現しています。こういうものに、イエス・キリストはなった、その見解は揺るぎませんが、キリストがいけにえだと明確に告げるのは、他にはエフェソ書とヨハネ書しかありません。パウロも、自分をいけにえとして捧げるという言い方をするだけです。
 
福音書で「いけにえ」と言うときには、古い祭儀のことに関することばかりです。キリストがいけにえになった、とするのは基本的にヘブライ書なのです。ここでは、唇で賛美のいけにえを捧げよ、とまで言っています。善行や施しもその部類です。確かにこれは犠牲を伴うものですが、実に賛美すらそこに含まれるというのです。
 
イエスの壮絶な死を身に負うなどということが、はたして私たちに可能なのでしょうか。すでにこのヘブライ書では、信仰者の列伝を見せています。こうした人々の生き方、特にその死に方を見倣え、と。それは痛いことです。辛いことです。しかしその先には、結果的に神の懐が待っているということなのでしょう。
 
新しい聖書協会共同訳はここにかの信仰者たちの「生き様」を見よというような訳し方をしていますが、これは日本語として適切ではないと思います。「死に様」から類推して作られた語だと思われ、良いイメージはもっていません。自分の生き方を無様なものと卑下するときに用いるべき語であり、倣うべき信仰者のお手本のために用いるのはよくありません。
 
神に一筋に従って死に至るまでを生きた人々をモデルとしていますが、そこに見るのはイエス・キリストの姿です。かつて信仰者たちを導いたのが、いま私たちが見上げるあのイエス・キリストであったのだ、と見なします。その意味で、イエス・キリストはかつてもあり、いまも変わらず、また将来にわたって同じ方であり続けるというふうに捉えます。
 
かつてあり、今あり、これからもそのままにあるお方であるからこそ、先輩たちの人生がモデルになりうるのです。この説教は、食物に引きずり回された悪しき例から、祭壇の動物、そして犠牲へと連想が進むままに場面が展開していきます。だから私たちは善いことへ引き寄せられてゆくのです。たぶん書き手もまた試練の中に置かれている気配を感じます。


Takapan
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