説教は人を生かす

チア・シード

ヘブライ12:1-11   


有名な信仰者の列伝を終えて、私たちは少しほっとします。その直後の文章については、やや関心を欠く傾向があります。こうした信仰者たちに囲まれているのだから、これを完成する目標であるイエスを見つめて、そこへ向けて走ろうではないか。美しいかけ声です。これがなくては、信仰者を並べる意味がないのです。
 
イエスは、あらゆる罪から逃れ、それに勝利し、愛する私たちをも鍛え、それに忍んだ者には、圧倒的な勝利を与えるのです。これは確かに説教です。励ましの奨めです。力強いメッセージです。しかもそれは、主に鍛錬されているという意識を伴うものであり、忍耐が奨められます。正に厳しい情況が、この背景にはあるのだろうと思われます。
 
具体的にどういう様子であったのかは分かりません。ただ、信仰が命懸けであった時代というものが確かにあったことを、私たちは肝に銘じなくてはなりません。霊の父である神が、聖い存在にするために鍛えてくださっているのだといいます。なんとも乱暴な励ましです。これを教義として普く掲げられたとしたら、きっとたまらないでしょう。
 
でも、説教は違います。説教は、その場におけるメッセンジャーと会衆との間の対話であり、神の言葉の一つの現れです。すべての現れではありません。その場の関係の中にだけ成り立つ、神の言葉の一つの出来事なのです。もちろん、それがこうして別の時代、別の場所にもたらされて新しい関係を築く、ということはあります。
 
また新たに、読者をこのメッセンジャーにつなぎ、その者を生かすということが期待されます。聖書は須くそのような形で人を生かすことを目指して、こうして遺されたように感じられてなりません。その効果は、後から分かります。聞いた当人ですらそのときには全く気づくことがないほどに、後になってから、分かることがあるのです。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります