死を超えて真の故郷へ

チア・シード

ヘブライ11:8-22   


「信仰によって」がこの信仰者の列伝の合言葉で、幾度も並びます。但しこれは「よって」という語は見当たらず、ただ与格で置かれています。「信仰で」が基本的な感覚です。これに併せて、確かに「信仰によって」と受け取ってよい場合があるのは事実ですが、解釈の余地を残してもいます。他の理解も読み取って悪いことはないでしょう。
 
もちろん、自分の感じたことこそ唯一の真理であり中心的理解なのだ、と独断的に決めてはなりません。この与格は、信仰についての強い関わりを示しているように感じられます。今回はアブラハムが主役となります。一つの視点は「故郷」です。生まれ故郷を離れたアブラムは、その生涯の中にこれからどこへ行くのか知れない旅を覚えます。
 
その旅とは、まさに人生そのものでしょう。人生の目的が定まっていて、それを信じて今を生きるというのが模範的かもしれませんが、進む過程は行く先を知らぬ旅であったというのがアブラハムの人生でした。信仰の人生でした。そこにあったのは、神が叶えるという約束の言葉だけ。しかも記者はアブラハムは約束のものを手にしなかったと言います。
 
訳語の上では何度も「故郷」と書かれていますが、原文ではこの語は一度しか登場しません。求めている自分の故郷という箇所だけで、神の国をそれは明らかに指しています。アブラハムが生まれ故郷を捨てたことより、目指すところ、神が連れて行くところしか、もう眼中にないかのようです。そちらこそが、本当の故郷なのである、と。
 
さらに、イサクを献げる時のことに触れ、死者の復活にそれを結びつけるのは、少し強引にも見えます。ヤコブからヨセフへと祝福が継承され、死と復活をテーマとしたような表現が流れていきます。イスラエルの父祖たちは、神の導くところこそ真の故郷とし、それは死を通り復活へと続いてこそ導かれるというのです。死を経ての祝福があるのだ、と。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります