あの信仰者たちとて完全ではなかったのに

チア・シード

ヘブライ11:32-40   


旧約に通じていなければぴんとこないかもしれませんが、ユダヤ人には名前を出さなくてもこれだけで十分伝わっているはずです。福澤諭吉の「学問のすゝめ」で、楠木正成や赤穂浪士については、その名を出さずともそれらの行為を批判しているとして、いきり立った者たちが福澤の命を担うまでに憤ったというのを思い出します。
 
秀吉の名、信長の名もいらないほど、日本人に彼らのエピソードは周知のことなのです。ヘブライ書の記者も、聖書のことを伝えるのに、出来事を言えば十分だったのです。要は、これが信仰者の列伝だということです。立派な信仰者として、イスラエルの歴史の登場人物を送り出して挙げている、それだけでよいのです。
 
神という求心力のある文化だと、その神を中心にいる主人公として、その周囲にこのように人物を配置して、伝統文化を説明することが可能です。けれどもこうした歴史を信仰の歴史として捉え、紹介するということは、案外珍しいのではないでしょうか。アブラハムの信仰は、パウロもピックアップしましたが、ここは少し違います。
 
多くの登場人物を並べて、すべてに共通する信仰という要素を考えるのは、独特でしょう。しかも、こうした人々は約束のものを与えられたという結末をもたないとしています。約束のもの、それはこれから来る者、与えられるものです。それが得られるためには、イエス・キリストの救いの業を経なければなりませんでした。
 
なんと私たちは恵まれていることでしょう。私たちを抜きに、これらの信仰の人々が完成に至ることはなかったというのです。私たちの時代を待って、さらにまさったものが与えられたのです。ということは、彼らの時にも、勝ったものは与えられていたのです。神に認められていたのであるし、報いは確かにあったのです。
 
彼らにとり、この世は相応しくありませんでした。この世で全うされることはありませんでした。完全となるのは、永遠の大祭司、イエス・キリストが現れてからのことなのです。私たちには、このイエスが現れました。イエスを知っています。その十字架と復活を知っています。本当ですか。本当に知っていますか。約束を、確信していますか。


Takapan
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