アブラハムがイサクを献げた件について

チア・シード

ヘブライ11:17-19   


ヘブライ書の信仰者列伝は量的に偏っていて、アブラハムとモーセが断然メインとなっています。そのアブラハムの信仰の生涯はいくつかのポイントを挙げることができますが、イサクを献げるシーンはそのクライマックスだとも言えるでしょう。アブラハムの話題が一度終わったかのように見せておきながら、再び「信仰によって」と切り出すのです。
 
イサクを「献げた」と言ってしまいました。イサクは殺してしまっていません。「献げようとした」という表現の方が正確であるはずであり、そのように次には書いているのですが、最初は言い切っています。結果を先取りして言うのは「穴を掘る」「湯を沸かす」のように日本語にもあります。そのような言葉の綾だとこの場合も言えるのでしょうか。
 
アブラハムの心的事実で、これはもう献げたのだ、と考えることもできます。だからこそ神は止めたのだ、と。他方、この父なる神は、御子イエスを献げてしまいました。まさに死に至ったのです。それはよみがえりを前提にしたようなことでしたから、アブラハムもイサクのよみがえりを信じていた、とする解釈をこの手紙は提示していますが、さて、そこはどうでしょうか。
 
しかし旧約聖書では復活ということは特に述べられていません。続編の時代になると少し登場しますが、一般に旧約聖書がよみがえりという考え方をもっていたかどうかも分からないわけですから、キリスト教でいう復活を適用してよいのかどうか、いくら予型という考えがあるにしても、検討の余地があるということになるでしょう。
 
神はアブラハムに、その子孫を星の数ほどに増やすと約束し、契約を結びました。それを実現するためには、いま献げて殺すイサクが生き返るのでないと辻褄が合わないではないか、といった合理的な説明で片づけるべきではないと私は考えます。アブラハムが、目覚めさせるようなところまで計算しているとは考えにくい、と思います。
 
信仰は、打算や見込みでもつものではないからです。ひとの命を懸けて試すようなことでもないと理解します。アブラハムは真摯に神に向き合ったのであり、ある意味で手紙の筆記者も、私たちも、このアブラハムの外から見て、こうではないか、と想像しているに過ぎないのではないでしょうか。いわば他人が安心したいために誰かの心を憶測するかのように。
 
私たちの懐くイメージで、ひとの信仰を、そしてそのひとに与えられた神からのチャレンジや祝福を、収まりのよいストーリーでまとめてしまうことは警戒しなければなりません。テストされたアブラハムが、そのテストに応えたということ以上の言及は控えましょう。確かにアブラハムは「献げた」のです。イエスは、心の中でひとを殺す殺人を指摘しました。私たちは別の意味で、もう人を殺してしまっているではありませんか。


Takapan
もどります たかぱんワイドのトップページにもどります