天の故郷と言うよりも

チア・シード

ヘブライ11:13-16   


信仰者の列伝、特にアブラハムの信仰を示したら、ヘブライ書の著者は、この信仰者たちが約束のものを与えられずして死んだことを告げます。なんとも空しい結末です。知らせたかったことは、この地上で信仰者はよそ者である、ということであるようです。この地上こそが人生の目的で行き着くところだとしたら、人の命はそれだけのものでしかありません。
 
自分の「故郷」というと、過去そこにいた、というイメージでどうしても捉えられてしまいます。本来性を以て住まうことになっている場所、自分の実体、本当の自分があるところ、というように見てはどうでしょうか。「自分探し」が流行したこともありましたが、それを求める人だからこそ、ここでいう「故郷」に注目してほしいものだと思います。
 
そのため、ここで「故郷」と訳している言葉は、扱いが難しいものです。確かに「故郷」でもいいのです。けれども、生まれ落ちた土地、あるいは懐かしい育ちの地域といった意味に制限されてしまうのだとしたら、そこへ行くには「帰る」という言葉しか使えません。けれどもここでは「天の故郷」という語を使います。天で生まれたとでもいうのでしょうか。
 
「故郷」あるいは和語での「ふるさと」では、これと違った印象を与えるような気がします。「故郷」と訳されたギリシア語は、父なる土地、ホームタウンを表すそうです。もちろん生まれた土地であってよいのですが、住み慣れた町にもなります。そして私たちはいま、野球チームの「本拠地」をこの言葉に近いように感じてもよいのではないかと思うのです。
 
周囲にいるのは味方ばかり。自分が安心して身を寄せることのできる、自分の本来の姿に戻れる場所とでもいいましょうか。アウェイの側にまわり、ビジターチームとして試合に臨むのではありません。それはどこかぎこちない、肌に合わない居心地です。それがキリスト者にとって、この地上であるというのです。
 
人として生まれた土地はこの地上かもしれません。しかし、自分の「本拠地」は天にあるのだ、というふうに聞くと、私は合点がいきます。天こそ本拠地。これを忘れなかったところに、かの人々の信仰があったということなのです。それが神の支配するところ、神の国です。自分は神の国にこそ本拠地をもっていると安らぐ、それがキリスト者なのです。
 
私たちの父の支配が行きとどいている国です。私たちが神の子として大切に扱われる世界です。聖書はそのように私たちに宣言しています。これを信頼することができるでしょうか。あの信仰者たちも、これを信じつつ、アウェイの地上において旅を続けました。かのホームタウンに、神は私たちのための住まい、ポリスを備えているからです。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります