信仰を通しての世界観

チア・シード

ヘブライ11:1-7   


こうなると、手紙というよりはむしろ説教です。「信仰とは」と切り出すヘブライ書の11章は、いわゆる信仰者列伝となっていますが、旧約の信仰者を辿る営みは実に壮観です。その冒頭に、信仰の定義が掲げられています。「信仰とは」と始まり、それは「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」であるというのです。
 
従来の訳では前半はこのように「確信」であり、あるいは「確証」でしたが、聖書協会共同訳は思い切って「実質」としました。そもそもここにある二つは対句のようなもので、語は替えていても言っている内容は同じようなことであるはずなので、わざわざ「実質」としなくてもよいのですが、こうなると「実体」と訳す哲学のようになってきます。
 
事物の根柢に普遍的にある不変なものとしての「実体」という哲学的概念がここにあるとは思えませんが、この文書の対象はバリバリのユダヤ人であって、ユダヤの祭儀の細かな規定や、旧約聖書の機微にわたる指摘が続きましたから、ギリシア哲学の議論を仕掛けるつもりはないだろうと思います。ギリシア語がどう理解されていたか、にもよりますが。
 
また、言わずもがなですが、「見えないもの」は視界において限界を求める表現とは限りません。認識できないこと、まさに確実なものとして断言できないような領域の事柄、それがターゲットになっているはずなのです。私たちがこの世界を神の被造物であると言ったとき、それはすでに信仰の言葉となっているにほかなりません。
 
このように考える人の考え方が、世界の現実存在を形成するものではないのも事実です。それは心で願い、現実となるよう祈るべきものです。でもそれが神に近づく方法にほかならず、神の喜ぶ、人間のあり方であるというのです。神に基づく世界観を知りましょう。そのためには、人物列伝から一歩身を引いて捉えてみることも大切だと考えます。


Takapan
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