いけにえを軽視していないか

チア・シード

ヘブライ10:5-10   


律法がイスラエルの法律であり行動原理であった時代、雄牛や雄山羊の血を献げることによって、毎たびの罪を赦してもらうことを繰り返していました。ユダヤ人の心身に染みついた精神です。それはもう意識にすら上らないほどに当たり前のことであり、そうしなければ自分は存在しないはずであるというほどのものだったと推測されます。
 
私たちが食事の前に「いただきます」と手を合わせたり、人ときちんと会うときにまずお辞儀をしたりするのと同様なのです。異邦人たる私たちには、このユダヤ人にとりオートマチックなほどの「いけにえ」というものについて、理屈では考えることができるにしても、感覚的には分かりません。欧米人がお辞儀を見て思うのと似ているかと思います。
 
頭で分かればいい、それ以上はどうでもいいじゃん、とばかりにこの「いけにえ」ということに痛みを感じない私たち。それがキリストの救いは素晴らしいと受け止め神を称え、神学だ摂理だと論じ、自分たちのキリスト理解に優越感を覚えているふしがないか、反省しなければなりません。もう古い律法は廃棄されたのだから、キリストだけで十分、と。
 
でも、それでよいのでしょうか。この動物の犠牲が、過去の遺物に過ぎず、軽々しく扱われてよいのでしょうか。持ち主たる牧者は、財産を献げるのです。それを買って献げる者も、命を犠牲にしているのです。私の罪の意識をなくすために、生物の命を奪っている、そのあり方が生活の大前提となっていることに立つ、それが聖書の文化です。
 
これなしで、ユダヤ人へ向けて書かれたこのヘブライ書がキリストの言葉だとして詩編を引用して語るその内容の重みを、分かるはずがないと思いませんか。手紙と言いながらまるで説教のように、旧約聖書を引いてからその大切なところを拾いまとめるという方法で、主がいけにえを求めないこと、キリストが来た理由を筆者はここに示しています。
 
この論理が、いけにえの重みを実は知らない私たちにとり、痛みを以て感じるものであるかどうか、疑わしいものです。イエス・キリストがその身を献げたということを、抽象的に捉えたり、逆にそこに意味がないかのように議論したりするのは、いけにえの大きさや辛さや残酷さを、軽く見ているからだ、と言ってはいけないでしょうか。
 
ヘブライ書は、一般に難解だと言われます。文化が違うから仕方がない、などとも慰め合います。それが言い訳になって目を逸らし、信仰義認がどうとか、福音とは何かとかを、新約聖書のすべてであるかのように私たちは論じています。それは、イエス・キリストの苦痛を無視しているからではないでしょうか。それあってこその私たちの救いなのに。


Takapan
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