走りながらでも読めるように

チア・シード

ハバクク2:1-4   


見張り場に立つハバククは、主からの言葉をまず待っています。主は私に何を語るのだろうか。そう、私の中から生まれる言葉を待つのが、いつの間にか自分の基準になりやすいものです。主よ、私の考えを認めてください、祝福してください、などと祈りますが、そう言いながら実のところ、神の権威を利用して自分が神になっているのです。
 
しかも、そのことに自分は気づいていません。ハバククだと、何か訴えることはあるにはあるのですが、それに対して主がどう応えるのかを、必ず気にしています。すると主が告げます。「この幻を書き記せ」と。それは「一目で分かるように」、板にはっきりと書き留めるということでした。注として「読む者が走るために」の訳も可能だと言います。
 
しかし私は、「走りながらでも読めるように」(新共同訳)という訳が心に残っています。慌ただしく走りながら通り行く人々でも、この板に大きくはっきりと主の言葉が書き記されていたら、読むことができるでしょう。いや、これを読んだ者が、大変だとばかりに人々に素早く知らせるために走るのだ、というのが本筋かもしれないのですが。
 
書かれてあるのは、終わりの日の審判のことです。必ず来るその時のことを、人々に知らせなければなりません。「走る」と言うことは、確かに走ることなのでしょう。でも、情報が多く流れるこの社会だとどうでしょうか。目を奪われるものが世の中には幾らでもあります。神の言葉になど目を留めていられるか、という思いで人々は生き急いでいます。
 
そんな世の人々にのみ適用されることかと思う必要はありません。キリスト者も当事者となり得ます。忙しくて聖書など読んでいる時間がない、という言い訳をしたことはありませんか。まさしくそういうことではないでしょうか。それは高慢な者だとハバククは言います。その心は正しくない、と言います。実は私たちにとり、頭の痛い指摘なのです。
 
この最後には、「しかし、正しき人はその信仰によって生きる」という文があり、目立ちます。神とその言葉に完全な信頼を置くときに、その人は生きるのです。それは待ち望む人です。高慢でない人です。正しい心はそこにこそあります。神の言葉を聴く人です。日々聖書を糧とし、祈りにより消化吸収を図りましょう。それを、語り伝えましょう。


Takapan
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