預言者の立ち位置

チア・シード

ハバクク2:1-4   


預言者という肩書きが付いたものは珍しい。ハバククは預言者であるといいますが、この人物についての情報は私たちにはありません。この書は、カルデア人、すなわちバビロニア帝国という敵に襲われる運命を語る書です。しかし捕囚そのものが描かれているようには見えず、そのことから書かれた時期が推測されもします。
 
旧約の預言者は、しばしばイスラエル民族の罪を指摘します。通例、戦争に負けた国はその神の死、非存在が明らかになり、消滅するものですが、イスラエルの歴史は、戦争に負けたのは神の責任ではなく、神に従わなかった民族の故であるとして、神そのものはずっと信仰を継続されてきました。この捕囚への歩みはまさに不信仰の罪の故だとする預言者が多い中、ハバククは、攻めるバビロン軍の悪を徹底非難します。
 
バビロン軍は、主が起こした敵です。それで、今度は神に向かって、なぜこんなことを神がするのか、とハバククは挑みます。預言者は神のことばを預かる者ですが、いつも神の言いなりになりスピーカーとなるばかりではないことが分かります。エレミヤは民族の責任を問いましたが、それでも神に向けて抵抗する気力が随所に見られました。ハバククもまた神に噛みつきます。ハバククは見張りをしていると自覚しており、神の応えを待ちます。
 
神は応えました。幻を書き記せ。フランシスコ会訳はこれを啓示と訳出しています。要するに神の与えたビジョンです。それは、板に、あるいは今風ならボードに、くっきりと刻むように書き記すようにと言い渡されています。それはハバククの、そして私の心の板に刻まれる必要があったでしょう。また、走りすぎる者からも誤解なく読みとれるほどに、書かれていなければなりません。時代に流され、神の前に留まるゆとりのない人々にも、この神のことばは伝えられなければならないというところでしょうか。
 
預言者が神のことばとして伝えることばは、秘められていてはなりません。どんな人にも示される必要があります。しかし、現代の私たちに対して、この預言の書は封じられている面があります。ヘブル語の特殊性も相俟って、謎めいているようにも見えます。邦訳を比較しても、かなり違う訳が提出されており、いったいどれが元の意味に合うのか、読者は判断がつきません。走りながらでも読めるものに、なっていないのです。
 
やがて終わりの日が来て、預言の書の効力もその時までとなりましょうが、遅かれ早かれ決定的な日は確実に訪れます。バビロン軍も裁かれるのです。それは高ぶる者と称され、この後、そこへの批判が続くことになります。しかしいまは、そのことに走らず、立ち止まって味わいたい部分があります。「神に従う人は信仰によって生きる」という、突然挟まれたことばです。
 
パウロはこれを、ローマ1:17やガラテヤ3:11で引用しました。まさに、律法による救いではなく、新しいイエス・キリストによる福音のために、そしてまたパウロの福音のために、このことばは力強い味方です。またヘブライ10:38もこれを引いていると思われ、新約聖書の思想のためには重要なことばとなりました。
 
敵は暴虐を尽くします。しかし、それに加担してはいけません。時に傍観も、加担していることになります。ハバククは、バビロン軍を強く非難しますが、それを見張るために高いところに立つその身は、主なる神に全身を向けています。身を張って同胞を護ろうとするその気構えは、自らは武器を取らずして国を護るために他人を戦地へ送ろうとする為政者の常の姿とは、全く異なるものではないでしょうか。


Takapan
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