預言者

チア・シード

ハバクク1:12-24   


ハバクク書の冒頭で、ハバククは「預言者」という肩書き付きで登場します。これは珍しいケースです。ユダの厳しい歴史を知る前のことでしょうか。しかし目の前には不法がはびこっています。それがやがてエルサレムの壊滅へとつながっていくのです。私たちの時代はどうでしょうか。
 
今、法治国家だという切り札があります。法に則って政治は動きます。それは時に、法さえできれば、法に合うものがすべて正義だとして施行され、法という偶像の許で、何ものかが利権を得ている構造を排除できずに権力を行使します。ハバククはこうしたことを「律法の無力化」として問題提示しているように見えます。
 
表向き法を破ることはもちろんしません。しかし法の精神が踏みにじられているという事態が、私たちの身の回りには溢れているような気もします。かといって、それを人情で破れば、法に違反したとして罰されることになるのです。権力側の匙加減ひとつで、罰も与えうるし見逃すこともできるという現象が、いくらでも散見できる世の中です。
 
主は、カルデヤ人を呼ぶとハバククが言います。罪に定められる国ではありますが、イスラエルの不法を正すためにこの敵が来ることを許されました。人間の国や政治の中に、究極の政治がありうるものでしょうか。他方、神の名を以て生きる民は滅びてしまうことはない、とハバククは確信します。滅びれば神を称える民がいなくなるのです。
 
預言者の存在する意義がここにあります。時を見張り、その時代に神が発することばを広く知らせる役割をもつのが預言者です。そうやって、神と人との間をつなぎます。正義を求め願う心を強く与えられる者として、預言者はこの世に立ちます。神が与える幻を預かるのですが、フランシスコ会訳はこの幻のことを啓示として提示しています。
 
幻を書き記せ。ここに付く「走りながらでも読めるように」は印象的なフレーズです。しかし他の訳はこれとは異なり、「読む者が急使として走るために」とか「読む者がはっきりと読めるように」とか訳し、訳が安定しません。預言者の役割をどう受け止めるか、によって日本語がずいぶん変わってくるような気がします。
 
ハバククは、神からの知らせをもらいました。これを記すのは、広く人々に知らしめるためです。また誰かがそれを知らせていくことが期待されています。それが急がれています。急いで知らせよ、とハバククが言っているとすると、定められた終わりの時へ向けて、神の業を告知すべく行動せよ、という方向性がはっきりします。
 
この幻は「板」に記すように命じています。板という訳は安定しています。板とは何でしょうか。モーセの石板が思い起こされます。神自らが刻んで渡した十戒です。それを基にモーセを通じて展開した律法は、その後形骸化して、人間の考えと思惑によってすっかり歪められてしまいました。
 
神と人との契約。それは神によって与えられ、人によって継承されましたが、改めて書き記し、急ぎ知らせよとハバククが受け止めたこの板は、かつての石板の出来事そのものではなく、新しい石板でありましょう。ヨシュアやエレミヤなど新たな契約も気になりますが、やはりイエス・キリストが身を以て結んだ契約、これを私たちは急ぎ知らせましょう。


Takapan
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