キリストの法則

チア・シード

ガラテヤ6:1-5   


自分をひとかどの者だと思い込んでいたとしたら、自己欺瞞である。こうした表現も、今は流行らなくなってしまいました。聖書にもここでそのように書かれているのですから、もっと注目されてよいような気がします。自らを吟味する。これが近代哲学といわず、哲学の基本となっていたはずでした。
 
けれども自分だけ単独で自らを吟味するというのは、原理的に不可能です。吟味する自分は、吟味される自分とは別だと言われてしまうからです。だからイエスがそこにいます。比べようもない存在として、このイエスが範となっています。その上でのみ、他の誰か仲間が迷っていたら柔和にその人を正すことが許され、求められているのです。
 
自己吟味なしで他人をとやかく言うものではありません。他人へ文句を先に言うばかりで、後から自分を、と言っているのでもありません。しかし、互いに思いを担うのは、先ず自分からだというのは、発端は他の誰かの振る舞いを見聞きして、そこからそれはどういうことなのかという思案が始まるというのは、仕方のないことなのだろうと思います。
 
しかしそこで問題の根本は自分なのだ、と自分を省みるかどうか、ここは大きい。誘惑はそこに入り込んできます。但し、このからくりを知っているだけでも、まだ違うものでしょう。このからくりこそが、キリストの法則というものだと捉えてみましょう。ここにはキリストの律法と訳してあり、それはそれでよいのですが、キリストの法則と理解しましょう。
 
というのは、それはユダヤの律法のようなもので、人を縛る厄介な約束事だというふうに誤解されたくないからです。キリストによって与えられ、連れて行かれた神の国の法律だという説明でもよいのですが、キリストの法なのですから、キリストの法則というふうに呼び直してみるわけです。言語の「法」は「法則」でもあり、また「律法」でもあります。
 
ヨハネの福音書やそのグループであったら、互いに愛し合うこと、それが新しい戒めだと言います。それと並行した言及なのです。むしろパウロの方が時代的に先だというのなら、ヨハネたちはそこを強調したことにもなりましょう。ひとに誇るものは自分の中にはありません。キリストの愛をシェアできたらいいのに、と願います。


Takapan
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