契約のため神が置いた虹

チア・シード

創世記9:8-17   


エゼキエルが初めに見た幻の中で、玉座の方から放たれる光が虹のようだという箇所を除くと、聖書に「虹」を表す場面は、ノアの洪水の後と黙示録に二度ほど出てくるだけです。その他、続編のシラ書に二度ありますが、何かしら皆神の栄光を現しているように見えます。聖書の中に虹なるものはさして扱われないもののひとつだとは言えるでしょう。
 
ノアの場面での虹は、人が虹を見たという他の用例とは異なり、神が置いたという点に注目すべきだと今日考えます。神が置いた虹は、言葉としては「弓」を表しています。万軍の主のもつ弓は壮大ですが、中国人は虹を蛇として見ました。この文化の違いを考察するゆとりはありませんが、美しい虹を神秘的に考えた人類史を彷彿とさせます。
 
ノアの虹もエゼキエルの虹も、虹は雲に現れるとしています。虹は必ずしも雲と同居するものではないのですが、出エジプトにおいて主は雲の柱としてイスラエルの民を守りました。雲は主の臨在を意味するものでした。天体現象についても、私たちがまだ知らない理解の仕方や概念があるのだろうと思います。
 
ノアにおいて虹は契約の証しでありました。契約といっても、神が一方的に結んだものです。つまり神が置いたものです。人に対して増えよと祝福を送った神は、はっきりと契約という考えを持ち出してきました。「契約」の語はすでに6章で箱舟製造を申し渡した時にありましたが、それに続いてここに現れます。オリエント文化は契約の文化でした。
 
神は人とだけでなく、生き物と広く契約を結びます。このような洪水はもう起こさないという誓いからです。いずれ終末に火は襲うかもしれませんが、水により滅ぼすことは確かに今後出てこないようです。してみると、詩人が大水の底から救ってくださいと祈ることがあるのも納得がいきます。大水では滅ぼされないので、主が救うことを確信しているのです。
 
この契約のしるしが虹であるという宣言でした。もう大洪水はありません。虹が水と関係がある現象である点も頭に置いておきたいものです。神は虹を見て、永遠の契約を思い起こすのだそうです。新約聖書を知る者は、神と人との間に神が置き、人を滅ぼし尽くさないための虹が、イエス・キリストであることを知ることになります。


Takapan
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