血は命

チア・シード

創世記9:1-7   


産めよ、増えよ、地に満ちよ。神の、ノアへの祝福は、これに始まり、これに終わりました。正にこれが祝福なのでした。動物たちが人の手に委ねられます。それらは、食すべきものとなるとされています。このことから、ノアの洪水以降、肉食が始まったとよく言われます。推測に過ぎないでしょうが、食について考えさせられるものです。
 
青草は、すでに生えていました。それと同様に肉も神が与えたことになる、というように解釈されるのです。但し、その肉には「血」が含まれていてはならない、と付け加えられていました。血は命であるからだそうです。これはどうしてだろうと少し不思議な気になります。血を命とする捉え方が、古来人間の有してきた感覚なのかもしれません。
 
血のつながりと私たちは口にします。それは命のつながりを意味します。死者が血色を失っていくのを見ると、なるほど血が命なのだと思わせるものを感じます。血液のはたらきが科学的に判明してからも、いまそれほど時が経っているわけではありません。血が命の本質であると考えるのも当然です。聖書の古さを思えば鋭い洞察だと思います。
 
ところが肉を食す私たちは、生物の命をもらっています。血を抜いた肉を食すとなると、命を戴いたことにはならないのではないでしょうか。もしかすると、かの肉食全般が、命を奪っている意識のない行為であったのか。献げ物の時も、血を抜くとすれば、殺しているという感覚を少し遠ざけることになるかもしません。否、それは詭弁でしょうか。
 
血を流した時に、血の償いを神は求めると言われました。獣に求めても仕方がないでしょうが、人の場合は深刻です。神の像なる人間を殺すことは重罪とされます。「イエスの血潮」などとクリスチャンは簡単に言いすぎていませんか。血は命であり、イエスの血が流れたことはまさに命を捨てたことです。血への見方を改める必要があるような気がします。


Takapan
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