持続する契約

チア・シード

創世記9:1-17   


ノアと神との契約の場面です。契約は、双方の益をもたらすことで成り立つべきですが、それはしばしば一方的なものとなります。つまり、片方が強い立場でより多くの利益を得ることがよくあるということです。甲乙式の契約書では、えてして甲が有利ではないでしょうか。ここでも神のイニシアチブ感は否めません。
 
箱舟を造らせたのも神であり、救ったことで改めて、滅ぼさないとの契約を立てたわけです。およそ、滅ぼさないという契約は、安心材料ではあるものの、そもそも何故滅ぼされなければならないのか、当然滅ぼされることになりかねないのか、それは説得力に乏しいと言えないでしょうか。神の気にくわないから人は滅ぼされてよい、となるならば。
 
神の側の思惑から始まり、いわば自分ツッコミをしているだけのようにさえ見えないこともありません。虹が契約のしるしであるという美しい証書を受けるノアですが、天に架かる橋は、確かに神と人との間をつなぐものとして相応しいかもしれません。だとすると、イエスの十字架もまたこの虹に比することができるのではないかと思われます。
 
見上げれば、神と私との間をつなぐ光の橋がある。あるいは光に道と呼んでもよいでしょう。それが神の手により備えられています。太陽の光の中に隠された一つひとつの色がグラデーションとなって分離され、無数の個性となって現れ出ていますが、それぞれが私たちの魂あるいは人格を表していると言えるのかもしれません。
 
神はこのノアへの契約の宣言の直前に、ノアたちへの祝福を告げています。一方的な契約であったとしても、祝福がなされているのです。これは私たちがイメージする、対等な関係の契約条項と見なすことはできないでしょう。特別な計らいで、恵みとして与えられるものなのです。人にとり決して心地よいものとは思えなくても構いません。
 
押し付けられたものであるかもしれませんが、産めよ、増えよ、地に満ちよ、として生き物全般に祝福は及び、この生き物たちとも神は契約を立てているというのですから、私たちもその一部に与っていることが喜びたいと思うのです。私たちは地上の生き物とつながっており、共に神を見上げているとしてもよいのではないでしょうか。
 
そればかりか、いまこの場にいない、ノアの子孫たちとも契約を結んでいることに驚かされます。なんということでしょうか。私との契約も、実にこのときに結ばれていたのです。私たちはいま持続可能な社会を模索していますが、虹の契約は、いまに至るまで持続可能な信仰の中で結ばれていたのです。この、続く信仰の中にいつまでもいたいものです。


Takapan
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