ノアとキリスト

チア・シード

創世記6:5-8   


主は悔やみました。地上に人の悪がはびこったからです。心に計ることが常に悪に傾いていたからです。それを主は知りました。それで人を滅ぼそうと考えました。けれども、ここで思います。いまの人間はどうなのでしょうか。心に計ることが常に悪に傾いているのは、何も変わっていないではありませんか。私たちは自己認識を忘れたのでしょうか。
 
人の悪が地上にはびこっているのも、全くそのままです。かの時代、謎の言葉があります。「神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、それぞれ自分が選んだ者を妻とした」(6:2)というのです。また「ネフィリム」(4)なる者が地上にいた、ともいいます。「神の子人の娘たちのところに入り、娘たちが彼らに産んだもの」(4)なのだそうです。
 
いろいろ言われますが、巨人であるらしいことが窺えます。異民族をそう見ることがあったのかもしれませんが、そこに人の悪を見るというのは、まだイスラエル民族が形成される以前のことです。人間一般として捉えるべきなのか理解に迷いますが、この有様を見て、人間たるものを一掃してしまおうと主が考えたというのですから只事ではありません。
 
これは、イスラエルの罪というレベルの話ではないのです。キリストにより、イスラエルの神と信仰が、全世界に拡がりました。いわば人間一般と呼べる時代となったのです。私たちは、またもやここへ戻されてしまいました。「創造した人を地の面から消し去る」と言い、人どころか、すべての生き物を「造ったことを悔やむ」とまで嘆いています。
 
私たちが同じ目に遭っていないのは、ひとえにキリストの故です。かつてはノアがいました。かろうじて数人の人間と、すべての動物とをノアは救いました。いえ、ノアを通して神が救いました。その後、キリストが現れました。神がキリストを通して、すべての人間のために、救いの道を拓いたのでした。


Takapan
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