神の後悔

チア・シード

創世記6:5-8   


創造主が、創造したことを悔やむ。驚くべき言い方です。ある意味で矛盾です。もちろん、これは人の言葉による表現の限界でもあって、人が悔やむのと同一視はできないでしょう。私たちが悔やむというのは、あんなことをしなければよかった、という気持ちを言うのだとすれば、神もまたそれに近い考えをもってしまったということになるのでしょうか。
 
すると神は、それをした後にどうなるのか、予見できなかったかのようにも見えます。果たして神の力というのは、人が思うその程度のものなのでしょうか。人が思いつきで判断した程度の世界に収まるようなものなのでしょうか。私たちは、ペットの行動すら把握できません。神はペット以下の存在だとは到底思われないのですが。
 
神を知り尽くしたなどとは決して思うべきではありません。地上にこのとき人の悪がはびこっていたという指摘を覆い隠すべきではないのです。まさに人が悪だったのです。どこまでも、人のしたことのうちに、この原因が求められています。否、だから人は神と離れて自由なのか、神の定めに制されることのない力を有している、それもやめましょう。
 
自由意志論と決定論とが論理的に向き合います。古来哲学的に培われてきた問題です。それはそれなりに踏まえておきましょう。人の心は常に、そう、常に悪に傾くのです。聖書の背景には、このような傾向性が頑として棲みついています。心が傾くとは実に優れた表現で、まるで重力の故に、地が傾けば自ら下方へ物体が向かうイメージを指しています。
 
自然法則ならば抵抗できないはずですが、しかし心においては、傾いていようが、落ちないように、踏ん張ることができないわけではありません。何かできると思われます。主の側からこれを見ても、いきなり人を地上から消し去るとした決意は、少しばかり短絡的に描かれているようにも見えますが、何か背景を説明したかったようにも思えます。
 
神の言葉は、それを発すると共に直ちに現実のものとして実現するはずだったはずなのに、ここでは人を消し去ると言ったにも拘わらず、直ちにそれは実現せず、むしろ神が後悔して思い直したとまで言われているからです。その理由に、ノアがありました。ノアとその家族は消されません。このノアをもしキリストに重ねると、どうでしょうか。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります