ネフィリムと神の後悔

チア・シード

創世記6:4-8   


ネフィリムという存在については、古来人々の興味をそそってきました。その定義は「神の子らが人の娘たちのところに入って産ませた者」「大昔の名高い英雄たち」だと記されています。第一エノク書には「神の子」というよりは「天使」となっているそうです。人間の女と交わって産んだ子は、何かしら神話的な存在をにおわせます。
 
民数記13章にも、カナンの地に住んでいる巨人としてネフィリムについて言及されています。怯えた故に相手が巨人に見えた、というからくりなのかもしれませんが、そう決めつけることもできないでしょう。ここ創世記には、巨人というよりは「勇士」として描かれています。問題は、この説明に続いて、「地上に人の悪が増し」たという叙述です。
 
これに神は心を痛め、ついに大洪水を起こして人類を滅ぼす計画を立てるのです。但し、ノアだけは神の目に適い、助けられます。滅ぼし尽くして人間を一切無しにしてしまおうとしたのを、ノアとその子孫だけを遺したのです。一から歴史をやり直そうとしたという意味でしょうか。神が一からやり直す、これは驚くべきことではないでしょうか。
 
このとき、神は地上に人を造ったことを悔やんでいるというのです。神の失敗です。やり直しとは失敗に基づくのです。この創世記を書いたのは人間です。何が記者にここまで書かせたのでしょうか。神が実際そう思ったという理解も、もちろん聖書を受け取る信仰として結構なのですが、この記者の思いがそう書かせたのだという理解もしてみましょう。
 
なぜなら、そう考えることを許さないならば、詩編が聖書である理由がなくなります。詩編は人から神への言葉です。人の思いが創世記の中に反映されているのがダメだとは思えないのです。神が悔やむ。どうしてこんな人間たちを造ってしまったのか。造らなければよかった。陶工が造りかけた粘土を潰して造り直す心境が重なっていたかもしれません。
 
エレミヤが、その陶工の例を描きました。創世記がそれより後に書かれたとするなら、エレミヤの預言を受け止めて、後のイスラエルが造り直される過程を踏まえて、ノアの救いの描写に備えて、やり直しのイメージをここに持ってきた、とすると越権でしょうか。かつて創世の時代に滅ぼされかけたことがあるのだというメッセージをここに立てたのだ、と。
 
但し、ここにはネフィリムの手が加わっています。すべての悪が人に由来することにはしていないのです。人の中に、得体の知れない巨人がいる。英雄や勇士と称される、莫大な力を有した何者かがいる。科学が巨大な力をもつこと、人の心がどんな残虐さも生むことを見ると、人が絶対に勝てない相手が、確かに人の中に住まうようにも思えるのです。


Takapan
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