ノアの時代と現代

チア・シード

創世記6:11-22   


新共同訳は「堕落」と「不法」でしたが、聖書協会共同訳は「腐敗」と「暴虐」に変えています。より深刻に聞こえるのですが如何でしょうか。この地は腐敗と暴虐の世界でした。肉なる者が腐敗させたのです。13節以降では「肉なるもの」と表記されていて、これは聖書協会共同訳も同じですが、原語でも同じ語なのに、意図がよく分かりません。
 
神は大洪水をもたらし、命の息のあるすべての肉なるものを滅ぼすと言います。地の上のすべてのものは息絶えるが、神はノアと契約を立てます。生き物の最低限の数を箱舟に乗せて救い、ノアと共に生きることになる、と宣言します。なんとも酷な仕打ちです。正しく全き人であったノアとその一家のみを人類として残し、他は滅ぼすのです。
 
ノアを除くすべての肉なるものの終わりです。この裁きを他人事として私たちは見がちですが、腐敗と暴虐などと聞くと、いったいいつの話なのかと驚くしかありません。人類は、数千年の時を経て、文明を発達されたとは言えるでしょうが、神の目から見えるその評価自体は、何も進展していないのではないでしょうか。
 
今私たちの見る世界、否私たちがいて、私たちが構成し、私たちに責任のあるこの世界が、腐敗していないなどと言えるのでしょうか。暴虐に満ちていないなどと言えるのでしょうか。何故に今神はこの世界を静観できるのでしょう。キリストの故です。神が決めた救いの道、それは神の子キリストを犠牲とし、信じる者を救うという道でした。
 
敢えて大胆な言い方をすれば、私が救われるためにこそ、これほどの赦しと恵みをもたらしたのです。それは自己中心的で傲慢な捉え方に違いありませんが、私はそこから私のすべてを懸けて感謝をし、忠実さを懐くことができます。そして私自身が生きると共に、生命ある生き物すべてと共に生きることを目的としていくことができるのです。
 
死ぬためではありません。共に生きるためです。こうした神の意図を、たかが人間である私などがどれほど理解したかは分かりませんが、ノアがここで、神の命じたままに行動したことに目を留めたいと思います。理解したり知識をもったりすることで議論しているのではありません。ノアは、聞いて、実行したのです。そうありたいと願います。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります