誰の信仰の物語だろうか

チア・シード

創世記50:15-21   


ヨセフ物語を紹介しようとすると、ずいぶん長くなってしまいます。創世記の三割近くを一人の物語が占めているのです。その生涯は波乱に富んでいます。イスラエル民族がエジプト出自であるのはなぜか、ということに応えるためのストーリーであるのかもしれませんが、ルツ記がモアブの地にダビデ王の家系の由来を見出していたのを思い出します。
 
つまり、イスラエル民族は、メソポタミア文明の地から来ると共に、エジプトからも来ていることを明らかにしようとしているように見えるということです。父ヤコブは、亡くしたと思い込んでいた息子ヨセフと、生きて再会するという驚きの喜びを得て安らかに眠ります。ヨセフの子をもヤコブの子として嗣業の地を与える預言の祝福を与えました。
 
ヤコブを失って脅威に晒されたのは、かつてヨセフを殺そうとした兄たち。復讐を恐れたのです。悪に対する仕返しを恐れたのも尤もでしょう。結果的に、ヨセフはそうはしませんでした。ヤコブが赦してやってくれと言っていたぞ、などと小細工をしたことも、ヨセフにはお見通しであったのでしょうか。それても、お人好しであったのでしょうか。
 
ヨセフは実におめでたい。兄たちのしたことを憎まず、兄たちを罰するようなことはしないと答えました。見事な信仰だと私たちは称えがちだが、いろいろ冷静に見つめたいものです。ヨセフは泣きました。これは父の思いやりを感じたからなのか、それとも兄たちの小細工が拙くて見え透いていたことを真顔で言うために泣けてきたのか、分かりません。
 
幼いころに兄たちが自分にひれ伏すという夢を見ましたが、それが預言として実現したことに感動して泣いた可能性もあります。いや、意地悪な見方はやはりやめましょう。すべての悪に仕返しをするつもりは、ヨセフにはとにかくなかったのです。今は自分はエジプトの実効的支配者です。すでにこの世の栄華を得ており、この世では勝利しています。し
 
兄たちのした悪は、悪であると認めています。単にお人好しなのではありません。神はその悪を善に変えたと言うものの、ヨセフは、自ら神を信じ称えるようなことを物語の中でなかなかしません。エジプトだからかもしれませんが、常に神が背後でイニシアチブを取っていたことは見て取れます。私たちの背後にも、神がちゃんといるはずなのです。


Takapan
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