罪が恐れを生む

チア・シード

創世記50:15-21   


ヤコブが亡くなったことで、息子たちは騒然とします。ヨセフの兄たちは恐れます。今やエジプトの実効支配をしている弟のヨセフ。かつて自分たちはこのヨセフを殺そうとした。偶々生きながらえ、エジプトへ売られた後宰相にまで昇り詰め、飢饉のイスラエルから兄たちが穀物を求めてエジプトへ来た故に再会を果たしました。
 
ヨセフの感涙の中で和解がなされ、エジプトに住まいを与えられたけれども、いま父ヤコブが死んだ。ここで復讐の刃が自分たちへ向けられる可能性が十分にあった。かつて自分たちがヨセフに対して悪を為したという記憶が、この恐れを生んだことになります。悪は罰を受けて当然の行為。ここへきて罰を受けるのではないかと恐れたのです。
 
人を介してヨセフに赦しを乞います。父ヤコブが赦してやってくれと言っていました。その言葉の通りに私たちを赦してください。これは策略かもしれません。本当にヤコブがそんなことを言ったのかどうか、定かではありません。ヤコブの遺言がそうであったかは怪しいのですが、果たしてヨセフも、それを感じないほど無垢ではありますまい。
 
しかしヨセフは、ソロモンとは違いました。ソロモンは実の兄弟を、王位を脅かす者として次々と粛正していきました。ヨセフはそれほど非情ではありません。まず直接は言えないほど、兄たちは怯えています。ヨセフが温和な姿勢を垣間見せたところでようやく顔を出して、ヨセフの前にひれ伏す兄たち。あの麦束の予言がここに成就しました。
 
ヨセフは、ほろりときました。兄たちの前で嘘をつき続けられなくなったあの時のように、涙もろいヨセフが現れました。果たしてどこまでが本心か。ヨセフが兄たちに恨みを懐いていたというような記述は、確かにここまで聖書にはありません。ここでの名セリフも、強ち演技だというわけではないような気もします。
 
自分は神ではないから、罰するようなことはしない。自分が受けた悪を、神は善へと変えてくれた。イスラエルの民が救われたではないか。神は結果を祝福の内にもたらしたのだ。ヨセフは、優しく語りかけました。兄たちの悶々とした問題はこれで解決しました。罪は恐れを生みましたが、益へ導く神への信頼は、その恐れを無きものとしたのです。


Takapan
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