カインの献げもの

チア・シード

創世記4:1-7   


古来謎の眼差しで見られることの多い箇所です。どうして主はアベルの供え物にのみ目を留めたのか。どうしてカインは主に喜ばれなかったのか。その上、何故怒るのかと厳しい言葉まで告げられなければならなかったというのは、理不尽な気もします。理由が説明されていないのです。聖書の徒がこれを説明しようと躍起になったのは、神を正しいとするからです。
 
神が正しいという前提で、だのに自分にはその正しさが理解できない、説明できないという状況の中で、なんとか神の義を論じていこうと考えるからです。いっそ、この神は正しくなんかないんだ、と言ってしまう論者がいてもよいのですが、キリスト教の世界にはそんな人はなかなか現れません。キリスト教に批判的な思想家はずいぶんそう言いもしますが。
 
誠実な信徒は「分からない」と口をつぐみます。分かったふりをして、捻り回して物語を勝手に創作するよりはよほどよいかもしれません。アベルは肥えた羊を持ってきています。この羊というモチーフがイエスにつながるという捉え方もあるでしょう。土地の実りも結構ですが、これは私たちの罪の購いとはなりにくいものです。
 
小麦粉が献げ物になることもありますが、血の献げ物ほど命にダイレクトに響くものではありません。カインは怒って顔を伏せます。実はここのところにこそ、私たちは目を留めるべきではないかと思います。私たちは、神の方を見なくなることがあるのです。それが正にこのことです。主はこのようなカインを見て、なおも声をかけてきます。
 
私が顔を伏せたとしても、神はそれでも私の方を見てくれるのです。「どうして」などと問うてきます。即座に断罪はしません。神は人に、問いを投げています。正しいことをしているのかどうかにより、道が二つに分かれているのが分かります。この「正しい」というものは、人の側にはないでしょう。善人なるものはひとりもいないからです。
 
しかし、人の側が、「正しい」というのはああいうことを言うのだ、と判断することそのものを退けてはいません。イエス・キリストが、その「正しい」存在として現れたことを信じ、認めることはできるのです。創世記3章の出来事を神学的に「原罪」と呼びますが、「罪」という語はそこではなく、このカインの箇所で初めて登場するのでした。


Takapan
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