違う立場で心を示し心に気づく

チア・シード

創世記45.4-15 


ヨセフは妬まれ、憎まれ、カナンの地からエジプトに売られていきました。その才覚が身を救ったのか、奴隷としては優遇されますが、あらぬ嫌疑をかけられて牢に入れられます。しかし万事塞翁が馬、不思議な才能の故にエジプト全土を救う知恵を働かせ、ついに王に継ぐ宰相の地位に就きます。そこへ、飢饉のカナンからヨセフの兄弟たちが姿を表しました。ヨセフは、母を同じくする弟のベニヤミンを見たさに策略を巡らせますが、兄たちが悔い改めるかのような態度を示すに至り、自分を抑えることができなくなりました。
 
これを人間的な目で見れば、不条理な運命に弄ばれる人生です。しかし聖書は、そこに神の計らいを見ます。聖書記者は、ここまでヨセフの生涯を描くにあたり、その感情を一切叙述しませんでした。それがここへきて初めて、ヨセフが自分を抑えらなくなったことを描きます。ヨセフはここまで、平静を装っていたのです。感情を自ら殺していたのです。苛酷な仕打ちに合う者が、なんとか自分を保つためにするかのようです。
 
エジプトの役人たちを立ち去らせると、兄弟たちにヨセフは自分の身を明かします。昂奮して叫び、号泣します。ヨセフが初めて、その心情をぶちまけます。ヨセフは兄弟たちを許すと言い、父親の存命を確認しました。この言葉はヨセフの真実でしょうか。つまり、兄たちを初めてエジプトで見た当初から、そのような気持ちでいたのでしょうか。私は怪しいと思います。ここへ来て初めて、そのような感情が起こったのではないか、と。
 
ヨセフの見立てによると、広く中近東にわたる飢饉は、七年間続きます。いままだ二年が経過したに過ぎず、あと五年は厳しい情況に置かれるわけで、父を含め皆でこちらへ移住するとよいと誘うのですが、そのとき、神がまずヨセフ自身をこの地へ送り、やがて父も兄たちも飢饉で死なずに済むように神が計らったのだ、という説明をします。いかにも信仰深いような言明ですが、これもヨセフがいま気づかされたことなのではないか、と私は考えるのです。
 
ヨセフが兄たちにここまで行ってきた、復讐めいたことが、初めからこのようなストーリー仕立てのものだったとは信じがたいのではないでしょうか。神の計画であった、というのは、事が起こってすべてを振り返ったときに感じることです。ひとにはその計画が予め分かるとは思われません。渦中では分からないことが、後からなら見えることがある。その程度です。いくら将来を夢で知るヨセフであっても、いまようやく気づかされたことであると見なすほうが自然です。
 
ヨセフの頭には、弟ベニヤミンのことしかありませんでした。父の心配すら薄かったと思われます。ベニヤミンだけが、自分の味方であるとしか思っていませんでした。それがあまりに信仰の優等生のような言葉、ここはむしろしばらく後になってからの気づきが記されているのではないか、と訝しく思えるほどです。
 
ほかならぬ私なのです、とヨセフは信頼を求めます。かつて自分は信頼してもらえなかった。そればかりか幻を妬まれ憎まれ、棄てられた。そのヨセフがいまもう一度、信頼してくれと伝えるのは、エジプトの宰相という地位や立場のゆえかもしれません。立場が替わったのです。クリスチャンも、かつてとは立場が違います。いまや神の子とされたのです。立場の変化を経た私たちクリスチャンは、与えられた豊かな恵みを、どのように発していけばよいのでしょうか。憐れみをかけるために用いることができるでしょうか。


Takapan
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